「――さま、ご主人様、起きて下さいませ」
ゆさゆさと身体を揺さぶられる感覚に目が覚める。
薄目を開ければ、霞む視界の中に白い妖精――ピアの姿があった。
いつもの護服をその小さな身に纏い、微笑みを浮かべて俺を見つめている。
「ん…… お早う、ピア」
「おはようございます、ご主人様」
起こしてくれた彼女に挨拶を返すと、彼女も丁寧に一礼を返してくる。
ちらと視界の端で時計を見る。時刻は七時丁度。いつもの俺の起きる時間にはやや早い。
「……何か、用事があったか?」
「え? 先日、ご主人様が今日は早く起こしてくれと…… 私、何か間違えましたでしょうか?」
「あれ?」
言われて記憶を掘り返す。
……確かにそんなことを言った気がする。何故言ったのかはさっぱりと思い出せないが。
「……確かに言ったな。すまん、忘れてた。何で早く起こせって言ったんだっけか」
「いえ、そこまでは仰りませんでしたので…… 申し訳ございません」
「いや、いい」
「ありがとうございます。 ……では、もう一度お眠りになりますか? その、宜しければ同衾致しますけれど」
「……いや、それもいい。起きるよ」
なかなか魅力的な提案ではあったが二度寝もどうかと思い、俺はベッドから上体を起こした。
軽く伸びをして、不意に出た欠伸を噛み殺す。まだ少し眠いが、身体はそこそこに快調のようだ。少なくともだるくはない。
「朝ご飯の準備は?」
「はい、出来ています。お召し上がりになられますか?」
「ああ。そうする」
「畏まりました」
一礼して踵を返し、俺を先導しようとするピア。
その白い小さな後ろ姿と浮かんだ光の翅が可愛くて、俺は咄嗟に彼女を捕まえ、腕の中へと引きずり込んだ。
「え、あ―― ご、ご主人様?」
未だにこういうことには戸惑う彼女を軽く抱き締めて、その長い髪の上から首筋に顔を埋める。相変わらずのいい匂いだ。花のような、果物のような、狐色に焼けた砂糖菓子のような――とにかく嗅いでいても飽きない匂い。
「今日もいい匂いだな、ピア」
「そ、そうでしょうか…… 自分では、よく分からないのですが」
早くも頬を紅潮させてそう呟くように言うピア。毎日のようにこういうスキンシップをしていて、更には何日か置きにこれ以上のことをしているのに、慣れても良さそうなものなのだが。
むしろ最近はより恥ずかしそうにしているような気がする。
そんな彼女の頭をひとつ撫で、俺はベッドから腰を上げた。小さな身体を抱えたまま歩き出し、部屋を出る。
「ご、ご主人様、このようなことは、その、あまり……」
「嫌か?」
「い、いえ、そういうことではなく…… 他の子に、示しが――」
「ご主人様、おはようございますー」
と、いつもの妙に伸びた声。廊下の先、居間の入口から半身を覗かせた緑の妖精――ミゥの鳶色の瞳がこちらを捉え、瞬間、光を放った気がした。
そしてすぐに俺の足元まで駆け寄ってきて、俺とピアを見上げ、
「ピアだけずるいですー。ボクも抱っこしてください」
と、全く臆面もなく笑顔で要求してきた。
「ミゥ…… あなたはもう少しご主人様に対する遠慮というものをですね」
「むう、いいじゃないですかー。ね、ご主人様?」
そんなミゥの言葉に、はあ、と溜め息まで吐いて呆れ顔のピア。
個人的には構わないと思うのだが、確かに最近のミゥはあまり遠慮がない。特にこういうことに関しては。
俺もあまり甘やかさない方がいいのかなと思いつつも、取り敢えず手を伸ばす。
「ミゥ、おいで」
「ふふ、失礼しますー」
伸ばした俺の腕の上に腰を掛けるミゥ。
腕を戻せば、左側にピア、右側にミゥという両手に花の状態。まあ彼女達がやって来てからはそう珍しい状態ではないのだが。
「えへへ、ご主人様ー」
俺とミゥの視線の高さが合ったその瞬間、彼女は俺の首に手を伸ばしてきた。そして絡むと同時、頬に暖かく柔らかい感触が触れる。
確認するまでもない。軽い口付けだ。
「どうしたんだ? またいきなり」
「だって、人間では口付けは愛情表現の手段なんですよねー?」
「まあ、そうだが」
というか、今までそれを分かっていなかったというのがある意味では凄いというか、彼女達らしいというか。
妖精の間では幻燐記憶という情報伝達の一手段であっただけに、最近になって再認識したということだろうか。
「じゃあ、ボクからご主人様にするのは当然じゃないですかー」
そう言ってもう一度。暖かく柔らかい感触が先程よりも口許に近い位置に触れてくる。
そして当然のように反対側からも。
「ピア、遠慮はしないのか?」
「ご主人様への愛情表現というのなら話は別です。私は、ご主人様を、愛しておりますから」
そうしれっと言ってもう一度。
左右からの甘い愛情表現に頬が緩むのを感じながら、俺は朝食を摂るべく食間に入った。
「――ほら、次! 足を止めるな! 戸惑うな! 直感でいいから動け!」
そんな激しい言葉と共に、穏やかな空気を切り裂いて飛来するものがある。
それは、拳三つ分はあろうかという氷の槍だ。
「く、ぬっ!?」
おおよそ一秒に一射撃。定期的な時間差を置いて次々と向かってくる氷はかなりの速度で、恐らくは野球選手の投球ぐらいには優に匹敵するだろう。
避けることができた氷はそのまま飛び去ってマンションの壁面に直撃し、小さな氷の弾痕を残して粉々に砕け散り、即座に消滅する。
だが、避けることが出来なかった氷は――
「ぶわっ!?」
俺の身体を貫く直前で爆発して、俺に極冷の飛沫を浴びせ掛けるのであった。
「まだ序の口だぞ! ほら、動け動け動け!」
「く――おうっ!」
一発を受けたとしても、シゥは次々と容赦なく指先に槍を生成して、こちらへと飛ばしてくる。怯んでいては連続被弾という身体の芯が震えるような結果が待っているので、とにかく回避を試みるしかない。
かれこれ休みなく三十分は続いているだろうか。被弾した数は数えるのも阿呆らしい。
それでもまだ動けるのは、俺の掌から零れ続けている緑色の燐光のお陰だ。
俺は今、ピアやヅィ、ミゥの講義のお陰で、疲労の除去と体温の一定化というふたつの妖精炎魔法を常に行使出来るようになっている。
流石に持続させられる時間は一日に一時間程度が限界だが、それでもインドア派人間の俺からすれば素晴らしい能力だ。 ――シゥからは、それを永遠に発動させっぱなしに出来ないと話にならない、と言われてしまっているが。
「くっ、ふっ、の――ぶっ!」
「ほら、そんなんじゃ俺らを護るとか言えねえぞ!」
「っ――分かってる!」
右、左、右、上、左、下、右――
俺の身体を中心として、必ず腕か足、頭を狙って氷の槍は飛んでくる。狙われた腕の方向に避けてしまうと避け切れずに命中してしまうので、必ず逆側に避けなければならない。かと言ってそれに集中しすぎると、頭や太股を狙って飛来する槍に当たってしまうことがある。
運動神経もそうだが、動体視力も要求される。放たれる槍が何処を狙っているのかは放たれてからでないと分からない。そして、それを確認してから回避する猶予時間が一秒ぐらいしかないのだ。そして避けれたと思った時には次のが放たれる寸前になっている。
本当にこれはきつい。
「――よし、終わり!」
そうシゥから宣言された瞬間、俺はひとつも疲労を感じていないはずなのに、腰が抜けたかのように座り込んでしまった。
「ご主人様、大丈夫ですか?」
「ああ。大丈夫。ありがとう」
「これぐらいで何かあったらこっちが困るぜ」
咄嗟に駆け寄ってきたネイが手拭いで額の脂汗を拭いてくれる。シゥはそんな俺と彼女を見て苦笑いを隠さない。
「今日は千二百三発の命中だな。だから――三時間とちょっとか。後で宜しく頼むぜ?」
「ああ、分かった」
一発命中につき十秒。それがシゥに対する講義料だ。その時間だけ、俺は彼女にふたりっきりで付き合うことになっている。何をするかは色々だが、半分ぐらいはお察しだ。
「――あ」
唐突に思い出したあることに、思わずそんな声を上げて手を叩く。
「ん? どうした?」
俺の膝に寄りかかって座る青い妖精――シゥの言葉を同じく黙して語るかのように、皆の色とりどりの視線が俺に集中する。
今は昼も終わって早くも夕方前。恒例のヅィによる妖精炎魔法の講義も一段落し、ゆっくりと皆で話をしながらお茶会を繰り広げていた時のこと。
「いや、今日ピアに朝早く起こして貰った理由を思い出した」
「ん、何じゃの?」
俺を覗き込むアメジストの瞳。どこか面白そうなものを期待しているようなその輝きに、俺は少しだけ笑って返した。
「今日は俺の父さん母さんから手紙が届く日なんだよ」
言いながら、俺は腰を上げる。
「父さんと、母さん……? ああ、ご主人様を産み、育てた方ですか」
「そうなるな。まあ、俺にとっての育ての親というと夏美さんだけど…… そういや、君らは両親とか言っても分からないか」
「はい。申し訳ありませんが、少し」
ネイとピアの声に、そう言えばそうだった、と思い返す。
彼女らフィフニル族は聞いたところによればフィフニルの木から生まれ、それ故に肉親という繋がりを持たない。それなら両親がどうのと言ってもその気持ちを理解することは難しいだろう。
「確か悠のその両親は、今は遠地にいるんでしたか」
「ああ。今何処にいるのかはちょっと分からないが…… まああのふたりのことだ。元気にやってると思うが」
「仕事は何を?」
「何だったかな。まあ端的に言えば学者、研究者だな。確か世界でも珍しい分野で論文を幾つも出してて、その発表やら招待やらで色々な国を転々としてるはずだ」
「じゃあ、ボクやヅィと似たようなものですね」
「そう言えなくはないな。じゃあ、取りに行ってくる。夏美さんのところに行くだけだからすぐ戻る」
「はい。行ってらっしゃいませ」
歩を進め、廊下から玄関へ。手紙はいつも夏美さんのところへ届くため、受け取りに行かなければならない。
と、靴を履こうとしたところで、音もなくノアが付いてきていることに気付いた。驚きを誤魔化そうと、笑って彼女の頭を撫でる。
「今日はノアか。すぐそこなんだから、わざわざ付いて来なくてもいいのに」
「今日の私に課せられた任務ですので。 ――お嫌でしょうか?」
「いや、そんなことはない。嬉しいよ」
僅かに翳りの表情を見せたことに驚きつつ、本心からそれを否定して、俺はノアを抱き上げた。
彼女を片腕に抱き、玄関を出る。夏美さんの部屋はエレベーターで一階分を上がってすぐだ。
以前受け取っていた専用の電子鍵をエレベータの端末下の鍵穴に挿し込めばいい。
「――あ、ようやく来たのね、ゆーくん。ノアちゃんも一緒に」
「すっかり忘れてまして。済みません」
「いいのよ。最近本当にゆーくん楽しそうだから、それ伝えたら安心してたわよ?」
そう言って、夏美さんはいつものように出迎えてくれた。
「チーズケーキを焼いたから、少しどう?」
「あ、頂きます」
久しぶりに夏美さんの部屋に上がる。
夏美さんの部屋は流石にこのマンションのオーナーであるからか部屋の構造が判押しではない。一階分を丸々使うことを前提とした広い間取りで、ひとりで住むには少しばかり寂しくなりそうなぐらいだ。
相変わらず居間はきちんと片付いており、強い生活臭を感じさせるものはない。流石に大人の女性であるからか。
「召し上がれ」
「頂きます」
「……頂きます」
ノアと一緒に一礼して、用意して貰ったシンプルな乳白色のチーズケーキを口に運ぶ。 ……うん、程良く冷えていて、まろやかな舌触りにチーズらしい甘みがよく出ている。その一方でチーズのあの独特の癖がない。流石はお菓子作りを趣味とマンションの住人に公言する夏美さんの作だった。
ノアの方も口許に運ぶ際に少しだけ躊躇が見られたが、一口食べてからはさくさくと食が進んでいる。気に入ったのかも知れない。
「私も忘れない内に渡しておくわね。はいこれ、小父さんと小母さんからの手紙」
「ありがとうございます」
食べるのをひとつ休憩して、夏美さんから封筒を受け取る。
白一色の相変わらずの簡素なもの。几帳面に『親展』などと書いてあるところが実に俺の両親らしい。
「はいこれ」
「ありがとうございます」
ペーパーナイフを受け取って、ざりっと封を切る。
中に入っているのはこれまた簡素な白一色の便箋が二枚。これもいつも通りだ。
取り出してざっと目を通す。書いてあるのは向こうの簡単な近況と、こちらの勉学と健康への伺い、半年分の生活費の振込みについて、夏美さんに宜しく言うように。この四つだ。これも勿論、いつも通りである。
「読みます? いつも通りですけど」
「私には別に届いてるから大丈夫」
苦笑しながら言って、夏美さんもその手に一通の封筒を示した。既に封は切られており、似たような内容だったのだろうなと推察する。
「今は何処にいるのやら」
「んー、多分だけど、ATLUSの中じゃないかしら。小父さんと小母さんはなんだかんだであそこに一番縁があるから」
「太平洋のど真ん中、か……」
「会いたいなら手配するわよ?」
「いえ、結構です。どうせ忙しいんだろうし」
悪戯っ子のような笑みを浮かべて提案してくる夏美さんに苦笑しつつ断る。
妙齢の女性である夏美さんだけれど、そんな顔も妙に似合っているから困りものだ。この笑みには山田さんも藤田さんも、そして俺も手を焼かされてきた。
「美味しい?」
「肯定」
「そう、良かったわ。まだまだ沢山あるから、他の子達にも持っていってあげてね」
「ありがとうございます」
素直に小さく頭を下げるノア。最初の警戒していた様子はかなり薄らいでおり、そんな彼女に何となく鳥の餌付けを想像してしまった俺は悪くないと思う。
「――夏実ぃ、持ってきたぞ?」
と、下らないことを考えていると、そんな聞き覚えのある声が部屋に響いた。
「あ、ご苦労様」
「ほれ、今月の―― お、坊主と、黒いちっこい嬢ちゃん。来てたのか」
居間に入ってきたのは、相変わらず無精髭を生やした若い男性――藤田さんだった。噂をすれば何とやら、というやつだ。
クリアケースに入った書類の束を夏美さんに渡して、それから俺とノアに視線を合わせてくる。そしてノアの手元のチーズケーキへ。
「夏実、俺の分は?」
「ちゃんとあるからそんな物欲しそうな目で見ない」
「そうか、安心したぜ」
笑みを浮かべて頷く藤田さん。どことなく、やんちゃな子供のような輝きが見えるのが特徴の笑みだ。
台所へ消える夏美さんの背中を追っていたその視線はもう一度チーズケーキを見て、それからノアに移った。す、とさり気なくノアが手元にケーキを引き寄せる。
「取りゃしねえっての。それより、青いちっこい嬢ちゃんは元気か?」
「はい。元気ですよ」
シゥのことだろう。あの旅行の一件以来、酒絡みで何かと交友があるようだ。藤田さんにしては珍しい。
答えると、藤田さんはまた一人で頷いて、
「珍しい酒が手に入ったんで、後で坊主のところに届ける。嬢ちゃんと仲良く飲めや」
「あ、ありがとうございます」
「身体動かすのもいいが、ほどほどにな。まあ、あの嬢ちゃんなら無理はしないと思うが」
そんなことを言って、ふらふらと吸い寄せられるように台所へ向かう藤田さん。
やはり知られていたようだが、無理に止めないということは見守ってくれるのだろう。ありがたいことだった。
「――届いたぜ、ご主人」
「やっぱり藤田さんだったか」
手紙とチーズケーキを持ち帰って数時間後。夕食の直後、呼び鈴を連打してきた訪問者はやはり藤田さんだったらしい。
シゥが頭の上に両手で抱えてきたのは、俺でも一抱えはある段ボール箱。中には数種類の洋酒や日本酒がぎっしりと詰まっていた。
「んー…… ご主人、宴会していいか?」
「まあ、いいよ。羽目を外しすぎないようにな」
「へへ、分かってるって。ヅィ、手伝え」
「あい分かった。感謝するぞ、悠」
シゥは満面の笑みを浮かべ、箱から酒瓶を取り出して食間のテーブルに並べていく。ヅィは冷蔵庫から酒の肴になるものを次々と。つまみとしては一般的な乾ものだけでなく、ありあわせの素材で簡単な料理を作っていく。
「あ、楽しそうなことしてますねー。ボクもボクも」
「私もいいですか?」
「勿論構わぬ。ミゥ、こちらの料理を手伝うがよい。ネイはピアに声を掛けてくるのじゃ。後々煩くされては敵わんからの」
気配でも察したのか、廊下から次々と現れる。本当にこの子達はこういった催しが好きだ。永遠を生きるに当たって退屈は天敵ということなのだろうか。
「――シゥ、あなたも少しは遠慮というものを!」
「ご主人のお墨付きなんだからいいじゃねえか。前みたいなことにはしねえよ」
「全くもう…… ご主人様、ありがとうございます」
「いや、別に構わない。俺も楽しいし」
「そう言って頂ければ幸いです。お酌などは喜んでさせて頂きますので、何なりとお申し付け下さい」
やってきてはシゥに声を荒らげ、溜息を吐きながらしぶしぶ許可し、俺に謝罪と礼をするピア。
彼女達がやってきてから幾度となく見た光景に、俺は苦笑しながら手を振る。
そこに横合いからぎゅうと抱き着いてくるミゥ。
「ボクもご主人様にお酌とか色々しますー」
そしてそんなことを言う彼女に、ピアの微笑みにぴきりとヒビが入る。
「ミゥ、あなたもですよ。ご主人様に対して少しは遠慮というものをですね」
「むう、そう言うピアだってボクと同じ考えなんじゃないですか?」
「わ、私は――」
「ええい。ピア、お主はもう少し自分に正直になってはどうじゃ。つい先日、族長などどうでもいいと言い放ったのはお主じゃろう。お主がそう変に構えておるのなら、わらわも遠慮せぬぞ」
「う…… しかし、それとこれとは……」
「ま、まあまあ。とにかく今は楽しみましょう?」
ネイの仲裁が入って、ひとまず静まる一団。
俺は苦笑いを浮かべつつも、いつ彼女達の間で嫉妬という名の炎が燃え上がらないか不安ではあった。
宴は良い酒と良いデザートのせいか、すぐにたけなわとなった。
「だから、あれはそういうのではありませんってば。あなたも詮索が好きですね……」
「仕事でもありますから。では、あの時は私事として?」
「そうなりますね。建前でしかないのは分かっていましたが、放っておくには事情を知りすぎていましたし」
苦笑いと驚き、感心を織り交ぜながら過去の話に興じるのはピアとニニル。
「ふむ。こちらは悪くはないのう。フリアルフリグに近い味じゃな」
「だな。こっちはどうだ? ゼリカラスティオに近いと思うんだが」
「あれか。 ……ふーむ、僅かに辛味が足りんの。こっちのと混ぜればより近いかもしれぬ」
酒の名前と思しき固有名詞をたまに発しながら、飲み比べとカクテル作りをしているのがシゥとヅィ。
「では、次は何を歌いましょうか?」
「えーとですねー。アレお願いします。らーたったーららー、って感じの」
「ああ。深き揺籃の地、でしょうか。五つ待ってくださいね」
全員からの(主にミゥの)あやふやなリクエストを正確無比に聞き、素晴らしい歌を届けるネイ。
「楽しんでおられますか?」
「ああ。賑やかなのは好きだ」
「了解」
そんな彼女達を眺める俺とノア。
ふと時計を見る。宴が始まってから一時間。時刻は完全に夜となっている。
とは言っても、まだまだ宵の口もいいところだ。それを考えれば、流石に酒もその肴も不安になってきている。
わいわいと沸く彼女達を横目に、俺は静かに腰を上げた。
「ご主人様、何処へ?」
「ちょっと近くの店に買出しに行ってくる」
「了解」
それ以上は何も言わずに腰を上げ、俺の後に付いてくるノア。
そんな彼女を夕方前の時のように抱き上げて、俺は楽しくやっている彼女達に変に気を使わせないよう、こっそりと家を出た。
エレベータから降り、ひとつ伸びをしながらマンションの玄関を出る。辺りは既に暗く、街灯の頼りない明かりが点々と駐車場と道路を照らしていた。
空を見上げる。満月の他には何も見えない、透き通った黒い夜だ。
「如何なさいましたか?」
腕の中からノアが訊いてくる。
「いや、ノアの髪みたいに綺麗な夜だと思って。行こうか」
適当に在り来りな台詞を吐いて、俺は歩き始める。歩きにしては足が少し速いのは照れ隠しか。
向かうのは角をふたつほど曲がった所にあるコンビニだ。何かあった時にはよく利用する場所である。
「――ご主人様は黒を、闇を恐ろしいとは思わないのですか?」
ふと、そんな質問が来た。視線を向けると、何処か驚いているような様子のノアがいた。
「ん、いや、別に? むしろ好きだよ、黒は。暗いのは…… 状況によりけりだな。少なくとも寝る時には暗くないと落ち着かないしな」
答えながらふとニニルの言葉を思い出す。
確か、妖精として黒は自然な色ではないし、よく分からないが忌み嫌われているんだったか。
あの時はノアも本当のことだからと言っていたが、やはり彼女も気にしているのだと分かって、俺の方も少し驚く。
「……了解」
相変わらず無表情に近いけれど、どこか嬉しそうなノアの頷き。
俺もそんな彼女に頷きを返し、一つめの角を曲がって――
「――待っていたぞ、青年。そして、黒の妖精」
立ちはだかった人影に、しばしの言葉を失った。
道路の中央。そこに立っていた人の姿は子供のもの。
珈琲のような浅黒い肌に、透き通るような鋼色の髪を前では小分けに束ね、後ろでは無造作に太腿近くまで伸ばした少女。
顔は綺麗に整ってはいるがやや丸みを帯びた幼さが抜け切っておらず、その雰囲気と百二十ちょいの身長からして年齢は十四を超えないだろう。ひょっとするともっと幼いかもしれない。服装は上を白のワイシャツに黒のネクタイを締め、下は黒のスパッツと、何だかちぐはぐだ。腰にはどこか見覚えのある小さなベルトポーチを付け、そこに僅かに弧を描く棒状のものを提げている。
「君、は……」
少し前の、ショッピングモールで見た少女。その時の記憶を思い出そうとした瞬間、ノアの声が耳に響いた。
「――エイル・シンガ・フィウ」
その声に乗って放たれたのは、独特の響きを持つ名前。
その名前は、確か――
「ご主人様、お逃げくださ――」
「そうはいかない」
ノアが俺の腕の中から飛び降りると同時に、エイルと呼ばれた少女も動作を見せた。
腰に下げた棒状のもの――その上端を掴み、すらりと抜く。月明かりに照らされて現れたのは、白銀の光を放つ片刃の剣。
「青年。君がそこを一歩でも動けば、君の命はないぞ。ここにいるのが私だけではないことぐらい分かるだろう」
「――」
やや思考が追いつかない。あの少女は――いや、でも。
そんな訳の分からない思考が頭を混乱させている間に、俺の視界の中でノアがその姿を消した。
「来るか」
エイルが呟きながら、一歩横にずれる。瞬間、その背後に闇を纏いながら現れたノアが一瞬前までエイルがいた場所を短剣で貫いた。
必殺であったろう攻撃を避けられたことを意に介す風もなく、続けざまにノアが刃を振るう。避け得ない軌道で滑り込んでくる刃を、エイルはその刀から離した左手で受け止めた。硬質な音が響き、直後、硝子が粉砕したような音と共にふたりの間できらきらと小さな粒子が散る。
「ふむ」
何かを確かめたかのように頷くエイル。一歩引き、今度は刀を戻した左手に持ち替え、右手を頭上に掲げた。
瞬間、小さな太陽のように闇を煌々と照らす五つの火炎球がエイルのその右手の上、中空に出現した。そして彼女が右手をノアに向けて振り下ろすと同時、ごう、と火炎球が光線のような尾を引きながらノアに殺到する。
対するノアは全く臆することなく突っ込んだ。その翅から湧き出した濃い黒色の霧がノアを瞬く間に包み、飛来してきた火炎球と衝突する。途端、火炎球はその全てが霧に分解されるように掻き消えてしまった。
「ふむ」
また何かを確かめたかのように頷くエイル。再び一歩引き――瞬間、音もなくその白刃が振り抜かれた。
刃は向かってきたノアを一直線に胴から両断した。しかし俺が叫びを上げる間もなく、両断されたノアはざわりと黒い塵になって掻き消え、瞬時にエイルの背後に出現する。再び両の短剣が閃き、それをやや慌てた様子でエイルが紙一重で回避した。
「ふむ」
三度目の頷きと共に、ざっとアスファルトを蹴ってエイルがノアから大きく距離を取る。
「やはり、まともに相手をしては到底敵いそうにないか。流石は黒の妖精だ」
遭遇時よりも距離が離れたからか、ノアがゆっくりと宙を滑るように後退してくる。
「……まだ、お続けになりますか?」
発された静かな言葉は、エイルの褒め言葉に対応してのものだろうか。
それに同意するかのように、エイルは刀を腰の鞘に収める。
「そうだな。どうやら主翼長殿にも気付かれたようだ。茶番は終わりにするとしよう…… 青年」
「!」
呼ばれたことに驚きつつ、外見はどう見ても普通の人間の少女にしか見えないエイルを油断なく睨む。
エイルは俺の視線を受けて、どこか皮肉げな笑みを浮かべ――
「何が起きたのか、理解出来ないというのも残酷だ。特別に分かりやすいように言ってやろう。 ――黒妖精緊急制御コード『アリアスティア』」
――その瞬間、俺の側まで戻ってきていたノアの身体が、不自然にびくりと痙攣した。
「あ、が……!?」
「――ノア!?」
苦しげな声と共にノアがこちらを振り返る。苦痛に歪んだ表情で、しかしその両手の短剣を俺に振り翳し――
「……っ!?」
全身を針で刺し貫かれるような激痛。噴き出す血飛沫。驚愕の色をありありと浮かべる、血に濡れたノアの顔。
俺が覚えていられたのは、そこまでだった。
苦痛と倦怠感に塗れた、冷たく朦朧とした意識の中で、幾つかの声が聞こえた。
「――しんさま、ごしゅじんさまぁ……!」
泣き喚くミゥの声。
「てめえ……!」
かつて聞いたことがないほどに怒りを孕んだシゥの声。
「……ふむ。ならば飲もう。しかし、後悔するでないぞ」
落ち着いていながらも苛立ちを隠そうともしないヅィの声。
「私は、私は――」
涙混じりに迷うネイの声。
「申し訳ございません、ご主人様…… 必ず、私達は」
決意を込めたピアの声。
そして、口許に触れる六つの小さな柔らかい感触。
それを最後に、俺の意識の奥に繋がっていた糸のようなものが、ぶつりと途切れる感覚があった。
『必ず戻りますから。待っていて下さい、ご主人様――』