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フィフニルの妖精達13「命の次に大切な -3rdDay-」

 旅行、三日目。
 しかしながら、俺と七人の妖精達は部屋に引き篭り、各々の時間を過ごしていた。
「んぅ……」
 耳に聞こえるのは、俺の腕を枕にして気持ち良さそうに眠る緑の妖精――ミゥの吐息。
 視界の端では、紫電の妖精ヅィと赤の妖精ネイが何処からか拝借してきた将棋に興じているのが見える。
 遠めに見る限りでは、予想通りにヅィの方が優勢なようだった。
「――ふむ、王手じゃの」
「ま、またですか」
 つい数分前にルールを教えたばかりだと言うのに、すっかり順応している。
 そう難しいものではないが、それでも一回目にして完璧に各々の駒の動きを覚えてしまっている辺り、聡明な彼女達らしかった。
 視線を動かすと、今度は青の妖精シゥと、黒の妖精ノアの二人が視界に入る。
 二人で何かをしているようだが、時折小さな声で会話を交わしているのが聞こえるのみで、その内容は把握出来なかった。
 更に視線を動かし、窓際の椅子に視線を向ける。
 そこにいるのは白の妖精ピアと、橙の妖精ニニル。
 ピアの方は何か考え事でもしているのか、視線を宙に固定したまま微動だにせず。
 ニニルは何か憂鬱な事でもあるのか、窓の向こうにずっと物憂げな視線を向けていた。
「……天気、悪いですね」
 不意にそう漏らしたのはニニル。
「そうだな」
 俺は彼女の言葉に答えつつ、ミゥの頭を撫でる。
「天気予報だと、昼から一雨降るそうだ。全く、ツイてないな」
 そう。
 今日は、先日ニニルから聞いた廃村にでも出掛けようと思っていたのだが、天気が崩れるとの予報で見合わせる羽目になってしまった。
 そんな訳で、こうして各々の時間を過ごしているのだが……
「……そうです、ね」
 はあ、と息を吐くニニル。
 俺はそんな彼女の様子に注意を払いながら、先程から思考を巡らせていた。
 どうにも、今日は彼女の様子がおかしい。
 正確には、朝会った時には普通だった。
 挨拶したら、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向かれた事からして、特別変わりは無かったように思えた。
 おかしくなったのは、天気の話をした時からだ。
「――雨、嫌いなのか?」
「……別に」
 試しにそう訊いてみたものの、素直に彼女が答える訳はなく。
 雨になったら困る事でもあるのだろうか。
「……ん、降ってきたな」
 ややあって。
 窓の向こう、曇天の空から、ぽつぽつと雨が降り始めてきた。
 予報より少し早いが、まあこんなものだろう。
 ニニルに視線を向けると、彼女は先程とはやや違う、強張った表情を浮かべていた。
 焦りにも見えるその表情に、やっぱり雨が苦手なんだろうか、なとど思っていたその瞬間。
「――悠、少し話が」
 俺の視線が向けられていたのを分かっていたように、こちらにしっかと視線を合わせ、そう告げてきた。
「話?」
「重要な事です。こちらへ」
 言って、ニニルは椅子から飛び降りると洋室の出口へと歩き出した。
 和室への扉を潜る彼女に、俺は慌てて付いていく。
 和室へ入った彼女は俺に振り向かず、そのまま部屋の玄関へ。
 俺が先導して扉を開けると、彼女は廊下へと出て、そこでようやく足を止めた。
「話って何だ?」
 そう聞き返すと、ニニルはゆっくりとこちらを振り返った。
 落ち着いているようで、心穏やかでないような、そんな表情。
 そんな表情のまま、彼女は俺を見上げ、その視線を逸らす事無く言った。
「お願いがあります。一時間、いえ、三十分だけでいいので、この首輪を外し、外出の許可を下さい」
「首輪を外して、三十分?」
「はい」
 思わず聞き返すと、すぐさまニニルは頷いた。
 そして、答えを急かすかのように、矢継ぎ早に続ける。
「必ず…… 必ず時間内に戻りますから。私に外出の許可を下さい」
「し、しかし――」
「お願いです!」
 突然の事に俺が言葉を詰まらせると、途端、ニニルは勢いよく土下座をした。
「後生ですから…… お願いします」
 昨日、散々吐いていた悪態は微塵も無く、ただただ必死に懇願してくるニニル。
 どう返答すべきか。
 そもそも俺が勝手に決めていい事なのか。
 いや、彼女の気持ちは分かる。妖精炎を封じる拘束具を外して外出するなど、他の六人の前ではまず通らない。
 だからこそ、僅かにでも可能性のある俺に、屈辱に耐えながらこうして頭を下げているのだろう。
 意図を察した俺は、分かった、と返答しようと口を開き――それよりも早く、鋭い声が廊下に響いた。
「何を寝惚けた事を言ってんだ」
 綺麗な声質ではあるが粗暴な口調の声。
 俺とニニルを追って部屋の扉から姿を現したシゥが、いかにも不機嫌そうな表情でニニルを睨み付けた。
 ニニルも面を上げ、シゥを睨み返す。
「……何でしょうか? あなたは呼んでませんよ」
「るせぇ。今度はご主人の優しさに付け込んで逃げるのか?」
「ちゃんと戻ると言っているでしょう。あなたも相当耳が悪いですね」
「ああ、すまんな、耳が悪くて」
 言いながら、つかつかとニニルに歩み寄るシゥ。
 有無を言わさずに彼女の手を捻り上げ、引き立ててしまった。
「っ、く! もう少し丁寧に出来ないのですか!?」 
「粗暴だからな、俺は。ほら、余計な事は考えずに大人しくしてろ!」
 そんな乱暴な遣り取りの中、ニニルと俺の視線が一瞬だけ合った。
 悔しげな、悲しげな、そんな表情。
 彼女がシゥに引っ立てられて部屋の中へと戻った後、俺は脳裏に彼女の表情を思い浮かべながら、彼女の懇願の意図を探る。
 重要なのは雨だ。
 そして彼女が俺に頭を下げるほどに、大切な事柄。
「……ひょっとして」
 ある事に思い当たり、俺も部屋の中へ戻る。
 そして洋室の扉に頭を突っ込んで、二人の名を呼んだ。
「ネイ、ヅィ。 ――ちょっといいか」


「急になんじゃな、悠。いい所だったのじゃが」
「すまんすまん。ちょっと頼み事があってさ」
 少しだけ不満げな顔をするヅィと、苦笑いを浮かべるネイを伴って、廊下を歩く。
 ややあって到着したのは、先日の庭。
 今日は風はなく、しとしとと降り始めた雨粒によって静かな葉擦れの音を立てている竹林が視界の向こうに見える。
「頼み事ってのは、探し物なんだ」
「ほう?」
「探し物、ですか」
 俺の言葉に、興味を浮かべる二人。
 ヅィの方は早くも俺の考えに気付いたようで、その顔をすぐに意味ありげな笑みへと変えた。
「そうだ。多分、鞄か何かがこの竹林の中、あるいは近くに落ちてると思う。それを探し出して欲しい」
「雨が本格的に降り出す前に、じゃな?」
「そうだ」
 先制されたヅィの言葉に頷き、竹林を一瞥する。
 竹林と言ってもかなりの広さだ。普通なら探すのは容易ではないだろうが……
「どうだ、頼めるか?」
「お任せあれ。 ――と言いたい所じゃがな、悠」
「ん?」
 ヅィは僅かに苦笑いを浮かべ、
「わらわはこういうのは苦手じゃの。竹林を全部焼き払って良いならば、話は別じゃが」
「そ、そうか。すまん」
「いや、別に悠が謝る事ではなかろ。わらわの力不足じゃ。じゃが、この仕事にネイを選んだのは正解じゃの」
 そう言われてネイに視線を向ける。
 彼女はしばし「私ですか?」とでも言いたげな驚きの顔をしていたが、すぐに何かを得たような顔になって、
「確かに、いけると思います。 ――あ、でも、ご主人様が」
「心配要らぬ。そこはわらわが制御するからの」
 そんな、彼女達にしか分からない会話が交わされた後、ヅィは再び俺に視線を向けた。
 そして、いつもの人を喰ったような笑みを浮かべる。
「のう悠よ」
「ん?」
「仕事には報酬が付き物じゃ。よって、わらわも少しばかりお願いをしてもいいかの?」
「あ、ああ。なんだ?」
「今宵の同衾権じゃ」
 悪くなかろ? とでも言いたげに、ふふん、と鼻を鳴らすヅィ。
 ふと見れば、ネイの顔は真っ赤になっていた。
「あ、ああ。ただし、ちゃんと鞄が見つかったらな」
「分かっておる。達成せずに報酬を要求するほどわらわは愚鈍ではない。ネイ、準備を」
「は、はい」
 一拍置いて、二人の背中から翅が顕現した。
 ヅィのものは、紫色に妖しく輝く光の束のような翅。
 ネイのものは、静かに燃え立つ溶岩のような翅。
 続いて、その翅がそれぞれ虹色と朱色に輝きだして、彼女達の手元が揺らめく。
 ヅィの手元には、金色の錫杖。
 ネイの手元には、巨大なハンマーである「血歌の盟約」。
 共に自身の身長の二倍近い長さを持つそれらを握り、もう片方の手を互いに重ね合わせる。
「悠」
「ん?」
「背を低くして、わらわに触れるがよい。いい、と言うまで、絶対に離すでないぞ」
「わ、分かった」
 ヅィの強い警告の声に、俺は慌てて彼女の小さな身体に触れる。
 取り敢えずは肩に触れると、彼女はくすぐったそうに肩を竦め、
「もっと強く。ほれ、抱き付くぐらいのつもりで触れんか」
「……分かったよ」
 思わず苦笑いを零しながら、ヅィの身体にしっかりと腕を回す。
 軽く力を込めると、ふむ、と彼女は満足げに頷いて、ネイに合図を送った。
「ネイ、始めるがよい」
「分かりました……」
 ネイがゆっくりと瞳を閉じ、大きく息を吸う。
 何を始めるのか、と思って彼女を凝視していると、一拍の後、彼女は口を開いた。
 同時、彼女の声が流れ出す。
「――Laaaaa……!」
 人の声とは思えない、まったく音程が変動しない単調な音。
 それをネイは、静かに紡ぎ出した。
 同時、彼女の翅の輝きが徐々に強さを増し、それに呼応する様に、ヅィの翅の輝きもその強さを増していく。
 そんな光景を目にする内、俺は不意に意識が遠のくのを感じた。
「う、お……?」
「これ、悠! もう少し自分をしっかり保たぬか!」
「あ、ああ……!」
 ぽーん、ぽーん、という幻聴のような鈍い音が、ネイの声に混じって俺の脳に響く。
 そしてそれが響く度、俺の意識が強制的に落ちようとしているのが分かった。
「く、ぬ……!」
 歯を食い縛って、意識を無理やり繋ぎ止めようと試みる。
 それでも、単調な音は俺の意識を緩やかに腐敗させ、落とそうと攻撃を加え――
 もう駄目だ、と思ったその瞬間、唐突に音が止んだ。
「だ、大丈夫ですか? ご主人様」
「っく、ちょっと、きつい」
 聞こえたネイの声に、頭を抱えながら何とか答える。
 耳鳴りのようなものが脳髄に響き、まともに思考をする事が出来ない。
「人間の身で耐えただけでなかなかのものじゃ。誇りに思うぞ、悠よ」
「あ、ああ。ありが、とう」
「してネイ、場所は掴めたか?」
「はい。大丈夫です」
 そんな二人の遣り取りを脳の端に留めつつも、俺はそのまま数十秒、その場に蹲り続けた。
 改めて思うが、流石は彼女達だ。
「ほれ、立てるか? 悠」
「なんとか」
 ややあって、ようやく引いた耳鳴りに俺は腰を上げた。
 定まった視界に、心配そうな顔をしたネイとヅィの姿が目に入る。翅と武器は顕現したままだ。
「人間の身にはちと辛いものがあるのう。ご主人も妖精の身に生まれれば良かったのじゃが」
「まったくだ。ネイ、それらしいものがあったのか?」
「はい。肩掛け鞄が落ちてました。私の記憶が正しければ、あれはニニルさんのですね」
「それだな。中身が濡れてしまう前に急ごう」
「はい!」
 縁側から飛び立ったネイを先頭に、竹林の中へと分け入る。
「それにしても、さっきのは何だったんだ?」
「あれはの、血歌の盟約の力の一つじゃ」
「血歌の盟約の?」
「はい」
 目印も何もない竹林の中を、迷う事無く真っ直ぐに飛び続けながらネイが答える。
「私の精神波を増幅し、妖精竜の規模へ変換して、およそ三イルス――こちらで言う一キロの範囲内にいる生物を乗っ取れるんです」
「乗っ取る?」
「マインドコントロール、というのでしょうか、こちらでは。実際には少し違うのですが……」
「ああ、何となく分かった。それで、虫とか鳥に代わりに探してもらったのか?」
「その通りじゃの。なかなか理解が早い。わらわは無闇な拡散防止と、同時に何体もを乗っ取れるようにしたのじゃな」
「なるほど」
 ネイが出力担当で、ヅィが増幅、制御担当、ということか。
 そんな事を考えながらしばし進むと、視線の先にある竹の一本の根元に、小さなポーチのような物が落ちているのが見えてきた。
 俺から見ればポーチだが、彼女達にとっては肩掛け鞄程度の大きさになるだろう。
 これがニニルの心配していた荷物に違いない。
 俺は急いでそれを拾い上げると、これ以上濡れてしまわないよう懐に抱えた。
「どうじゃ?」
「ちょっと湿ってるぐらいだから、大丈夫だろう。さ、早く帰って安心させてやるか」
「分かりました。では――」
 そう言って、ネイが踵を返した瞬間、風切り音が俺の耳元で響いた。
 妙にゆっくりとした視界の中、俺の頬を掠めた“何か”が、一直線にネイの背中へと向かう。
 その先端に取り付けられた粗暴な刃が、彼女の服を裂いて、その中にある肉へと――
「!」
 そこから先は、一瞬でいくつもの事象が起きた。
 瞬間、飛来した刃の先端が赤熱し、その端から瞬く間に黒ずんで塵となり霧散する。
 次いで再び踵を返したネイが、続けて飛来した“何か”を、自身に近付く前に難なく打ち落とし、同時にヅィが、その指先から青白い光を竹林の奥へと放った。
「ネイ!」
「了解しました!」
 ヅィが呼びかけ、ネイが応える。
 二人は瞬時に俺を前後に挟む態勢を取り、その手の武器を身構えた。
 何が何だか分からずに呆然とする俺に、ヅィが竹林の奥に視線を向けたまま、囁く。
「悠、この先、何があってもわらわやネイを庇ってはならぬぞ」
「え?」
「あの時のような事は、ごめんじゃからの」
 それだけ言って、ヅィは襲撃者に声を上げた。
「出てくるがよい、礼儀を知らぬ愚か者。出てこぬのならば、容赦なく行くぞ」
 落ち着いてはいるが、はっきりとした怒気の篭った声。
 そんな声が薄暗い竹林の中に響いて消え――ややあって、一つの影が太い竹の陰から姿を現した。
「そう怒るなって、綺麗な娘っ子よぅ」
 けっけっけ、と下品に笑うその相手は、見た事もない生き物だった。
 身長は小さく、一メートルあるかないか。腕や足は節くれ立って妙に細く、しかし襤褸切れのような布と革を纏った身体は肉があって腹が出ている。
 その頭に髪は一本もなく、代わりに尖った角のようなものが二本、生えている。
 顔は目や鼻の位置のバランスが崩れていて、左右対称になっていない。その所為か、異様に醜かった。
 その手に持っているのは、小さな弓。背中には矢筒、腰には丸い円形の板のようなものと、太い木の枝にいくつもの石を括り付けたものを提げている。
 ああ、そうか。
 この生き物は、見たことがある。
 まるで、ヘビーファンタジー系のゲームに出てくる子鬼――ゴブリンそのものだ。
「……なんじゃ、こやつは」
 ヅィの問いにゴブリンは答えず、下碑た笑いを浮かべながら空いている右手を挙げた。
 それを合図に、周囲から無数の足音がざわめき出した。
「う、お……」
 思わず声が漏れる。
 ナイフを持っていたり、棍棒を持っていたりと装備はちぐはぐで、その身長もさまざまだったが…… 十や二十では効かない数のゴブリンが、俺達を包囲していた。
 げへげへ。
 美味そう。
 おんな。
 犯りたい。
 耳障りな雑音が、周囲に満ちる。
 そんな下碑た空気の中、最初に出てきたゴブリンが、満を持したように言った。
「どうだ? そこの娘っ子二人、大人しくしてれば痛い思いをしなくて済むぞぉ?」
「――愚考の余地もなかろ。やれるものならやってみるがよい」
「そうかぁ」
 間髪入れずにヅィが飛ばした答えに、しかし余裕を持ってゴブリンは続ける。
「てめえら、そこの男は殺しても構わねぇが、娘っ子二人は殺すなよう。お楽しみが無くなっちまうからなぁ」
「主の声は耳障りじゃ。少し黙るがよい。掛かってくるならさっさとせぬか」
 錫杖の先端を、どうやらリーダー格らしいゴブリンに向けてそう言い放つヅィ。
 言われたゴブリンはそれでも余裕の笑みを崩さず、へっへっと笑い、
「――やっちまいな!」
 そう号令を下した。
 途端、竹林の中に歓声が満ち、ゴブリンの群れが俺達の元に殺到する。
 真っ先に行動したのは、ネイ。
「――っは!」
 血歌の盟約が、唸りを上げて振るわれる。
 ネイに向かって愚直に突っ込んできた三体が、その打撃部による直撃をまともに受け、吹き飛び――
「Gaaaaaaaaa!?」
 突如として全身が発火して、地に伏す前に灰に。そして塵になった。
 振り下ろしたその隙に、別の二体が武器を振り上げて突っ込んでくる。
 すぐさま向けられた彼女の左手から、凄まじい量の炎が噴き出した。
 火炎放射器もかくや、という凄まじさに、二体はあっという間に炎に呑まれて輪郭を失い、後方から続こうとした数体を焼いた。
 それでも臆せずに、ゴブリンは突っ込んでくる。
「く、ぬうッ!」
 ヅィの方でも、突っ込んできた数体を一撃で塵にするほどの炎が吹き荒れていた。
 彼女が手を、杖を振るう度、青白い光――猛烈な電撃が束になって相手を吹き飛ばし、強風を伴うほどの業火が相手を焼き尽くす。
 開幕から数秒で、二十体以上は塵に、あるいは黒焦げになっただろうか。
 だが、ゴブリンの数が減る様子はなく、その勢いも衰える様子がない。
「ええい、雑兵めが……」
 そんなヅィの呟きが耳に入ってくる。
 このままではまずい事は、俺にも分かった。
 後から後から突っ込んで来る為、徐々に包囲の輪が縮まりつつあるのだ。
 今は触れられる前に駆逐出来ているが、一度到達されてしまえば、あとは呑まれるだけだ。
「――く、ぬ!? 離れよ、汚らわしいッ……!」
 そんな事を考えている間に、ネイの一撃を掻い潜った小さな一体がヅィに跳び掛った。背中からしがみ付き、彼女の紫電の髪を引く。
 僅かに眉を歪める彼女。
 俺はすぐさまそのゴブリンの頭に拳を入れた。もんどり打って倒れたが、流石に倒せるまでにはいかない。すぐに起き上がって、こちらを歪んだ顔で睨み付けてくる。
 そして目にも留まらぬ速度で、俺に跳び掛ってきた。
「く――」
「悠!」
 すぐさま反応したヅィが、その指先を宙に滑らせる。
 その軌跡から緑色の光が放たれ、ゴブリンの身体は半分に分かたれて地に落ちた。
「手を出すでない!」
「し、しかし――」
「悠が狙われては―― っ、ぐ!?」
 俺を助けた隙を突いて、別の一体がヅィの背中を棍棒で殴りつけた。
 たたらを踏んだが、すぐさま踵を返すと同時、錫杖を振るう彼女。
 その先端が彼女に一撃を加えた一体の脇腹に当たった瞬間、猛烈に青白い火花が散って、痙攣しながら吹き飛んだ。
 しかし休む間もなく、錫杖から離した左手を宙で払う。
 生み出された業火が至近距離まで迫っていた別の一団を焼き払い――
「く、ぬ……!」
 それでも後に続く何体かが、ヅィの死角から跳び掛かれる位置にある。
 素早く錫杖を返すが、間に合わない。
 そう判断した俺は、ほぼ無意識にゴブリンとヅィの間に割って入った。
「ぐっ……!」
 跳び掛かってきた二体を身体で受け止める。
 拳を受けたかのような衝撃にたたらを踏んだその隙に、ゴブリンは俺の服に掴み掛かったまま、その手の短剣を振り上げてきた。
 やられてなるものかと、必死に腕を振る。
 振り下ろされた短剣を持つ骨ばった腕を間一髪で掴み、無理やり跳ね除けた。
 ごき、という嫌な音。
 流石の腕力の差か、あっさりと肩の骨が砕けたゴブリンが嫌な悲鳴を上げたその隙に、ズボンを掴んでいるもう一体の頭に拳を振り下ろす。
 ある種爽快な激突音に耳を向ける間もなく、新手の一体が跳び掛かってくる。
 組み付かれている二体を急いで振り払い、跳び掛かって来た一体に備え――
「――ぐ、おっ!?」
 背後からの突然の衝撃と痛みに、思わず身を捩る。
 振り返れば、棍棒を振り翳した一体が再び俺に一撃を加えようとその手首を返しているところだった。
 何とか防ごうとするも、正面から跳び掛かってきた一体の衝撃に体勢を崩し、肩にまた一撃を貰ってしまう。
 鈍痛に顔を歪め、視界に三度、棍棒を振り上げるゴブリンの姿が目に映り――
「……悠ッ!?」
「ご主人様ッ!」
 声と同時に空気を貫く、青白い閃光と凄まじい熱気。
 猛烈に火花が散って、棍棒を振り上げた一体が吹き飛ぶと同時、背中にあった重みが一瞬の熱と共に消え失せる。
 だが、それも一瞬。
 新手が俺に跳び掛かり、それを払う前にヅィやネイの元にもここぞとばかりにゴブリンが殺到する。
「っ、この……!」
「く、下種めがッ……! 悠、しっかりせよ!」
 数体に組み付かれながらも、疲れを見せずに次々と敵を薙ぎ払い、俺を助けようとする二人。
 しかし依然として相手の数が多過ぎる。
 全身に響く鈍痛に、視界が鈍る。不意に受けた棍棒の一撃が地面に膝を付かせ、意識が遠のいて――
「――っ! 舐めるでないわ、三下ッ!」
 瞬間、ヅィの怒声と共に、歪んだ視界が極彩色に染まった。


 事象は一瞬だった。
 ヅィの胸の中央が強く紫色に煌くと同時、虹色の光が辺りを埋め尽くした。
 妖しい瞬きを含んだその光は、彼女自身を包むと同時に彼女に組み付いていたゴブリンを飲み込んで、更にその周囲へと広がっていく。
 不気味な光に恐怖を覚えたゴブリン達が一歩後退するも、既に遅く。
 光はそこから猛烈な勢いで拡散して、ゴブリンの集団ごと俺とネイを包み込んだ。
 一拍を置いて、視界が元に戻る。
 その時には既に、あれほど耳障りだったゴブリンの声がぴたりと止んでいた。
 それもそのはず。俺の周囲には、俺と、ヅィと、ネイの三人以外は跡形もなく消え失せていたのだから。
 ただ、地面に無数に残っている小さな足跡だけが、奴らが先程まで確かに存在していた事を示していた。
「……っ、はぁッ、悠!」
 あまりの事象と、身体に響く鈍痛にしばし呆然としていた俺にヅィが駆け寄ってくる。
 その顔は怒っているんだか泣いているんだかよく分からない顔で――
「この、たわけが!」
 ぽく、と。
 そんな擬音で表すようなヅィの拳による一撃が、俺の頬にまともに入った。
 少しばかり正気に戻らされた俺は、突然の暴挙に抗議してみる。
「なんだ、いきなり」
「なんだ、ではないわ! 言ったじゃろ、庇ってはならぬと! 主の耳は飾りかえ!?」
「飾りじゃない。ちゃんと聞こえてたよ」
「ならば悪いのは主の頭か!? わらわの意図が分からぬとでも申すか!?」
「ちゃんと分かってたよ」
「ならば!」
 怒鳴る彼女の頭にそっと触れ、でも、と俺は続ける。
「女の子を護るのは男の役目だ」
「っ……! この、たわけ……!」
 そう罵倒するなり、ヅィは俺の胸に顔を埋めてきた。
 俺はそんな彼女の頭をゆっくり撫で続けながら、一つ息を吐く。
 ややあって、緊張を吐き出すように、ざあ、と竹林が風もなく鳴いた。


「――ただいま」
「お、お帰り」
 三人で部屋に戻ると、まだノアと話していたらしいシゥがこちらを振り返らずにそう応えた。
 思わず三人で顔を見合わせ、頷き合う。
 瞬間、こちらを振り向いたノアと視線が合った。
 しばし見つめ合った後、小さく首を傾げて視線をシゥに戻すノア。
「……どうやらノアも気付いておらぬようじゃな」
「みたいだな」
 和室を通り抜け、洋室に顔を出す。
 洋室では相変わらず、枕に顔を埋めているミゥと、窓際の椅子に腰掛けて、しとしとと雨の降る外を眺めているピアとニニルの姿があった。
「ただいま」
「あ、お帰りなさいませ」
 声を掛けると、はっと気付いたように笑顔を浮かべ、そう返してくるピア。
 ニニルの方は…… 心ここにあらずといった感じで、じっと外を睨んでいるようだった。
 その様子にやれやれ、とヅィ、ネイと顔を見合わせ、懐から鞄を取り出す。
「ニニル」
「……」
「ほら、ニニル」
 呼び掛けても反応がない。
 これは重症だなと苦笑しつつ、俺は彼女のものと思われる鞄を彼女の目の前にあるテーブルにぽん、と置いた。
 瞬間、彼女の目が驚きに見開かれる。
「――悠、これは」
「探し物だろ?」
「そ、そうですけど……」
 ニニルの視線が俺に向けられる。
 何と言えばいいのか、あまりの驚きと感動に言葉が見付からないようだった。
「これ、ニニル。我らが主がわざわざ竹林の中を汗に塗れて探して持って来てくれたのじゃ。それなのにお主は礼の一つも出来んのかの?」
 そこへヅィが笑いながら指摘する。
 はっ、と今気付いたような顔をした後、分かってます、と慌てて返したニニルは、小さく頬を朱に染めて、
「……わ、わざわざ、ありがとうございます。悠」
 と、至極「余計なお世話を」とでも言いたそうな物言いで頭を下げた。
 その様子にネイとピア、ヅィがくすくすと笑う。
「な、なんですか」
「いや、素直じゃないのう、とな」
「に、人間に荷物を触られて気持ちがいい訳がないでしょう。ほっといてください!」
 言って、そっぽを向いてしまうニニル。
 そんな彼女を四人で一杯に笑った後、さて、と言いつつヅィが俺の腕を掴んだ。
「少々疲れたでの。湯浴みに行ってくる」
「あ、ああ」
 突然そう言い出した彼女に俺が頷くと、彼女は小さな笑みを浮かべ、
「何を呆けておる。主も一緒に決まっておるじゃろ」
 そう言って、その小さな身体に似合わぬ力で俺を引っ張り出した。


 あまりの強引さにピアやネイ、ニニルが呆けている間に俺は部屋から引っ張り出され、あれよあれよという間に浴場へと連行されてしまっていた。
 当たり前のように二人で男湯の側に入り、ロッカーの前に着く。
「……なあ、ヅィ」
「なんじゃ?」
 胸元にあるボタンを外し、早速上着を脱ごうとする彼女に一言。
「もう少しお淑やかで恥じらいがあった方が女の子らしいと思うんだが、どうだろう」
「我が主を先導しようというのに、恥じらいがあってはおかしいじゃろ?」
 ……流石の切り返しだなと、他人事のように思う。
「確かにそんな気もするが――」
「それに。わらわはその女がどうのといった区別は好かんのう。わらわはわらわじゃ。そして悠を愛しておる。これで十分じゃろ?」
「え、ちょっと待て。なんか話が――」
「じゃろ?」
「……そう、だな」
 ならばこの話は終わりじゃ、と笑って言うヅィ。
 そんな彼女には小言を言う気も失せる。
 この少々強引な所も彼女の魅力の一つなんだろうなと思う。
「んむ? どうした?」
「いや。ヅィらしいなと思って」
「じゃろう?」
 二人で小さく笑いながら、服を脱ぎ始める。
 横目でちらと見ると、ヅィの下着は他の四人の物とは一風変わっていた。
 いわゆる要所だけを覆うブラやショーツの類ではなく、肩紐のあるコルセットにパンツを一体化させたようなものだ。
 紫電の生地が胸から股間、尻の半分を隙間なくしっかりと覆い、下着としては独特の雰囲気を放っている。
 改めて見て、その下にある見事なボディラインに、なるほど、と思う。
 恐らくは普通の下着ではなく、矯正用としての一面を持っているのだろう。
 それを慣れた手つきで脱いでいき、あっという間に生まれたままの姿になるヅィ。
「ほれ、悠もはようせぬか」
「分かった」
 そう俺を急かすと、楽しくて仕方ないといった風の笑いを漏らし、ぱたぱたと浴場へ駆けていく。
 彼女に遅れて支度を整え、後を追って浴場へと入った。
「ほれ、こっちじゃこっち」
 ヅィが呼ぶのは、先日ピアと一緒に入った檜風呂の前。
 俺が近付くと、彼女は軽やかに浴槽の縁を飛び越えて、ばしゃりと湯の中に着水した。
 俺もゆっくりと湯の中に入って、肩まで沈めて深く息を吐く。
 そこへヅィが半分泳ぎながら俺の身体にしっかりと掴まってきた。
 柔らかで綺麗な絹のような肌が、胸元に押し付けられてくる。
「全く、人間の風呂は深くていかんの。溺れてしまいそうじゃ」
「君達みたいな小さいのが使う為に作られてないからな。仕方ない」
「仕方ないのう。という訳で悠、失礼するぞ」
「どうぞ」
 湯の中で身体を翻し、すぽりと俺の膝の上に収まるヅィ。
 小さな頭を俺の肩に預け、頬をすり寄せてくる。
 同時、俺の首元を撫でる彼女の髪の感触がくすぐったい。
「髪、纏めなくていいのか?」
「ん? 何故じゃ?」
「いや、普通は纏めて湯に浸からないようにするもんだと思ってたんだが」
「ああ、心配要らぬ。この程度でどうにかなる髪ではない。妖精炎で防護もしておるしな」
 髪は妖精の命じゃからな、と自慢げに語る彼女。
 ニニルも含む七人全員に言える事だが、彼女達の髪は確かに艶やかで美しい。
 別段何もしなくてもその髪質を保てるというのは、さぞ世の女性は羨ましがる事だろう。
 ――と、そんな事を考えていたら、半ば無意識に彼女の髪を触っている事に気付いた。
 ある事を思い出して、少し背筋が寒くなる。
「む、どうした? 悠」
「ああ、いや…… よくよく考えたら、俺、君らの髪にやたらベタベタ触ってるが…… ひょっとしてあまり触って欲しくなかったか?」
 数十分前。
『――く、ぬ!? 離れよ、汚らわしいッ……!』
 そう、髪を掴んだゴブリンに対し、凄まじい剣幕で怒鳴っていた彼女を思い出す。
 そんな俺の思考を読み取ったのか、ヅィはすぐ問題のシーンに思い当たったようで、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「悠は、あの醜い生き物と、わらわ達が主人と認める主自身が同等だと思っとるのかや?」
「――いや、多分違う」
「ならば答えは出ておろう」
 くっく、と笑って、戯けた疑問じゃな、と続ける彼女。
「まあ、悠が自惚れておらぬ事はよう分かった。それは感心な心掛けじゃな」
「あ、ありがとう」
「どこぞの皇帝のように、自分の支配するものが自分の思い通りであって当然と思い込んでおる者は、大抵自滅の運命を辿るものじゃ。心しておくがよい」
 何がそこまで面白いのか、俺の顔を横目に、くっく、と笑い続ける彼女。
「そのような顔をするな。まあ、欲を言うならもう少し傲慢であってもよいと思うがの。わらわ達の主なのじゃから、相応しい態度でいてもらわねばな。例えばわらわ達を庇って怪我をするなど、論外じゃて」
「……やっぱり、怒ってるか?」
「それなりにのう」
 身体の向きを変え、形のいい乳房を俺の胸に押し付け、細い腕を俺の首に絡ませて、至近距離で視線を交錯させ。
「一番遺憾な事は、悠がわらわ達の力をまだ信じておらぬという事じゃな。シゥが見せたであろ? 傷が瞬く間に治る光景を」
「ああ」
「流石にあ奴の速度には及ばぬが、わらわも自己治癒に関してはそれなりに熟練しておる。例え腕が吹き飛んでも、数十秒もすれば完治が可能じゃ。究極的に言えば、妖精石さえ無事ならば何があっても死にはせぬ。危機的状態にはなるがの」
「なら……」
「だが悠。主はそうではなかろ?」
 ヅィの表情から、すっと笑みが消える。
「大きな怪我をすればその傷は身体に残り、ともすれば一生に渡って影響を及ぼす事もあるそうじゃな。ならばそんな悠と、わらわのどちらかが傷を負わねばならぬ時、自ずと優先順位は決まるであろ? 口にするまでもない疑問じゃな?」
「しかし」
「これは譲れぬ。重ねて言うがの。傷付かねばならぬなら、それはまずわらわ達が負うものじゃ」
 言って、彼女の白魚のような指が、そっと俺の顎をなぞる。
「そのような顔をするでないと言うに。少なくともわらわは、その心意気を嬉しく思う。雄に護られて嬉しくない雌はおらぬ。身体を交わらせるほどの関係ならばなおさらじゃろ? ならば今、わらわが胸に感じておる、この暖かい気持ちは、そういう事なのじゃろう」
「ヅィ……」
「くふ。ついぞ数日前に雄と雌の関わりを知ったばかりの者の言の葉とは思えぬ壮言じゃな。許すがよい」
 笑って、俺の首元に顔を埋める彼女。
 艶かしい吐息がうなじを撫で、俺の身体に絡みつく彼女の腕により力が篭る。
「悠があ奴らに飲まれた時、わらわは不安で胸が張り裂けそうになった。かような思いを、わらわに味わせないで欲しい。今や主を失う事は、わらわの妖精石を砕かれる事と同等に恐ろしい……」
「……」
 無言でヅィの頭を撫でる。
 一つ撫でる度に、彼女は吐息を漏らし、腕に力を込めてくる。
 俺を放すまいとするかのように。
「のう、主よ」
「ん?」
「ぎゅっと、抱き締めてくれぬか。情けない事にな、こんな事を話している間に、また不安になってしもうた」
「……すまん」
「よい。ぎゅっと、力一杯に抱き締めてくれれば、不安も消えてなくなるじゃろ。さあ」
「ああ」
 請われる通りに、ぎゅっとヅィの小さな身体を抱き締める。
 柔らかな肌に、暖かな鼓動。
 思わず身体の力が抜けていきそうな安堵感に負けずに、俺は彼女の身体を放すまいと更に力を込めた。
「はふ…… 主の身体は、温かいの」
「ヅィこそ」
「くふ、ふ…… 他の者には見せられぬ様じゃな」
 対抗するように、彼女の腕にも力が篭る。
 しばしの間、俺とヅィはそうやってお互いの暖かさを確認し続けた。
 
 
「え、じゃあ――」
「うむ」
 ざあ、と顔を湯が撫でる。
 その中で聞こえたヅィの頷きに、俺は僅かに耳を疑った。
「一瞬、わらわもゴブリンかと思ったがの。あれは違う」
「じゃあ、何なんだ?」
「分からぬ」
 湯が一杯に入った桶を両手で担ぎながら、彼女が首を傾げる。
「確かにゴブリンには似ておったがの。なんというか、纏っておる空気が違う。幻影界の生物ではない。自然界のものじゃった」
「ふむ……」
「それにあ奴ら、日本語を話しておったろ」
「――あ」
 よくよく考えれば、アレらは確かに日本語を話していた。
 思い返せば、なかなか奇妙な光景だ。
「てことは……」
「少なくとも、わらわを追っている者の手によるものではなかろう」
 言って、彼女はその見た目的に辛そうな桶を軽々と頭の上まで持ち上げ、ざばりと湯を被った。
 紫電の髪に大量に付いていた泡が湯に流れ、彼女の肌を伝って床に流れていく。
「妖精炎魔法の防御に関しても、全く抵抗を感じなかったしの。あれらが幻影界の生物である事はない」
「なるほど…… そう言えば、最後のは凄かったな」
「ん? あ、ああ…… あれかの」
 全てを飲み込み、ヅィに仇なす者だけを消し去った虹色の光。
 あれだけ凄い事象を起こしておいて、しかし彼女はどこか納得のいかなさそうな顔で、
「まあ、威力に関しては自己記録更新といったところじゃが……」
 と、歯切れ悪く口にした。
「何か不満でもあったのか?」
「いんや。そういう訳ではない。威力も範囲も、影響対象の選定も、全て満足のいく程度じゃ。わらわが気にしておるのは、妖精炎魔法らしくない、という事での」
「妖精炎魔法、らしくない?」
「うむ」
 一つ頷いて、ヅィは再度、桶に湯を汲み始めた。
 静かな浴場に、湯の跳ねる音と彼女のはっきりとした声が響く。
「実を言うとな。あの時わらわは妖精炎魔法を編んだ訳ではないのじゃ。ただ『悠に仇なすこの醜き者どもを、一匹残らず消し去ってしまいたい』と思っただけでの。瞬間、わらわの中からかつてない程の妖精炎が湧き出して…… 身を任せてみれば、あの通りじゃ。結果的には良かったものの、納得がいかぬし、ちと恐ろしいのう」
「どういう事だ?」
「つまり――」
 言いかけて、ヅィはふと口を一度閉じた。
「そう言えば、悠。主に妖精炎魔法の原理の説明をした事はあったかの?」
「いや、ないが」
「ふむ。ならば丁度よい。ひとつ講義をしてやろう」
 そう得意げに言うと、彼女は桶を床に置いて、腕と足を組んでこちらに向き直った。
「悠。主は魔法についてどういう認識を持っておる?」
「魔法か。魔方陣を描いたり、呪文を唱えたり、って感じだと思ってるが」
 まず最初の質問にそう答えると、彼女は何故か微笑ましそうな笑みを浮かべて、
「それはの、正確には魔法ではない。広義では魔法に含まれるがな。魔方陣を描いたり呪文を唱えるのは、魔術というのじゃ」
「魔術……って、魔法と何か違うのか?」
「違う」
 ヅィは短く確かに断定すると、まるで出来の悪い生徒に諭して教えるかのような口調で説明を始めた。
「魔法と魔術の最大の違いは、自己の能力であるかないか。即ち術式宣言の有無じゃ。魔法は術者の身に直接備わっておる能力の一つじゃから、術式宣言をする必要がない。例えば悠は重い物を持ち上げたりする際に、自分の筋肉に『力を貸してくれ』と頼むかや?」
「……頼まないな」
「じゃろ? これを魔術に例えると、主自身には力はなく、代わりに肉体労働専門の者が傍におるわけじゃ。じゃから重い物を持ち上げる時には『力を貸してくれ』と言葉にするなり文字にするなりして頼む。これが術式宣言じゃな」
「なるほど。つまり魔方陣や呪文が術式宣言というのに当たるわけか」
「その通りじゃ。妖精炎魔法は、妖精族がその身体に秘める妖精炎を原動力にする訳じゃから、魔法に属するのじゃな。ここまではよいか?」
「ああ」
「魔法は自分に備わった能力故、感覚的に扱う事が出来るのじゃ。魔術ならば長ったらしい式を口頭で詠唱するなり、魔術文字の羅列にし、法則通りに組むなどして術式を表現せねばならぬ所を、魔法ならば少しばかり頭の中で考えただけで術式を表現出来るのじゃな。悠も、他人に仕事を頼む時は仔細を説明するじゃろう? 自分でやるなら説明の手間は要らぬ。そういう事じゃな」
「ふむ」
「そして、本題の妖精炎魔法じゃが」
 そうヅィは一拍を置いて、言葉を捜すかのように宙に少しばかり視線を彷徨わせてから、ゆっくりと語りだした。
「妖精炎魔法は、言うなれば己の妄想を世界に押し付ける魔法じゃ。これ以外の効能は持たぬ」
「己の、妄想?」
「そうじゃ」
 俺の呟きにヅィは頷いて、先程彼女が湯を汲んだ桶を俺と自身の間に置いた。
「例えば。この湯は熱いな? 確認するまでもないじゃろう? 確認してみてもよいがな」
「あ、ああ」
 桶の中の湯は白い湯気を湧き立たせていて、触れるまでもなく熱いのが分かる。
 何より、俺も先程から洗面台の湯を使っているのだ。まさか冷たいなんて事はないだろう。
「そこでわらわが『この湯は冷たい』と妄想する」
 そう、何だか訳の分からない事を言って、ヅィは人を喰ったような笑みを浮かべた。
「勿論、実際にこの湯が冷たいなどという事はありえぬ。わらわの妄想の中でのみ、この湯は非常に冷たい。そう。冷たいのじゃ。そして妖精炎魔法は、このわらわの妄想を、世界にも妄想させようと試みる」
「世界にも、妄想?」
「そうじゃ。そして、わらわの妄想と、妖精炎の力量が、世界の法則を書き換えるに値する説得力と力強さを持っていれば、この湯は――」
 言って。
 瞬間、ヅィの背中に紫の翅が顕現した。
 翅は虹色の輝きを発し、一瞬だけ一際強く輝いて――
「――冷たくなる」
 ヅィがゆっくりと桶の中の湯に触れる。
 僅かな波紋が起きて、水面に写った彼女の顔が歪んだ。
 ――それだけだ。湧き上がる湯気も、周囲の温度も、何一つ変わっていない。
 だが――
「触れてみよ」
 彼女が言う。
 俺はその言葉に誘われるように、ゆっくりと桶の湯に指を浸けた。
 指先に感じたのは、肌を刺すような熱――ではなく、まるで凍り付く寸前の水のような冷気。
「!?」
 慌てて指を引く。
 そんな俺の様子に、ヅィはくっく、と声を漏らして笑った。
「この湯はつい先程、わらわの妄想の影響を受けてその温度を急激に低下させたのじゃ」
「……」
「これが妖精炎魔法。わらわ達が手足のように扱う、妖精族の根源たる魔法じゃな」
 翅を出して飛んだり、傷を癒したり、炎や氷、光や雷を放ったり。
 変幻自在な、万能の魔法という訳か。
「改めて見ると、凄いな」
「くふ。そうじゃろう?」
「これで何故、納得がいかないんだ?」
 話を聞く限りでは、妖精炎魔法に実現出来ない事象はない。
 妄想の、想いの力さえ強ければ如何な現象でも引き起こせる筈だからだ。
「うむ。つい先程言ったじゃろう? わらわの妄想と、妖精炎の力量が、世界の法則を書き換えるに値する説得力と力強さを持っていれば、と」
 そこで彼女は、実に納得のいかなさそうな顔をする。
「つまり『悠に仇なすこの醜き者どもを、一匹残らず消し去ってしまいたい』などという願いにも似た漠然とした妄想では、妖精炎魔法の顕現には至らぬ筈なのじゃ。あまりにも説得力がないからのう」
「なる、ほど」
 漠然とした想いは、その力も漠然としていて、世界を突き抜けるに至らない、という事か。
「それに。そのような漠然とした妄想で妖精魔法が顕現されてもらっては、わらわとしても困るのじゃ」
「何故?」
「危険じゃからな。例えば悠がわらわの大切な物を壊したとして――そんな事はありえぬが――怒ったとしよう。そして『死ね』などと一瞬でも思ったら、それが実現してしまうかもしれんのじゃぞ? そんな一時の激情で、主に危害が加えられてしまったら敵わぬ」
「む、う」
 淡々と言われ、喩えと言えども少しばかり背筋が寒くなる。
 そんな俺の様子を感じ取ったか、ヅィは笑みを浮かべて、
「まあ、実際にそこまでいくかどうかは怪しいがの。悠は今、妖精炎魔法の原理について知った故、抵抗する事も不可能ではない筈じゃ」
「抵抗?」
「うむ。妖精炎魔法の顕現には、術者の妄想、世界の妄想、対象の妄想、という三つの段階があっての。抵抗とは三番目――対象の妄想で起きる現象じゃ。世界の妄想を、対象が受け入れず、妖精炎魔法の顕現が起きない、あるいは事象の程度が大幅に減退する事を指す」
「対象の妄想?」
「うむ。所詮は妄想じゃからの。それを受け入れなければ、妖精炎魔法は顕現せぬ」
 言って、ヅィは再び桶の湯――今となっては冷水だが――を示した。
「例えば、先程この湯は冷たくなった。だがこれは世界の妄想に過ぎぬ。そして悠がこの湯を冷たく感じるのは――」
「俺がその世界の妄想を受け入れているからか」
「その通りじゃ。理解が早いの」
 ならば、どうすればよいか分かるな? と言わんばかりにヅィは笑みを強める。
 俺は、ゆっくりと息を吐いて、指を湯に伸ばした。
 ――これは湯だ。まぎれもなく。肌を刺すように熱い。
 そう思いながら指先を浸けた湯は、確かに――熱かった。
「うん、熱いな」
「くふ。優秀な生徒で何よりじゃ。誇りに思うぞ」
 くっく、とヅィは声を漏らして笑う。
「それが『抵抗』じゃ。わらわ達と共に敵に抗うならば、覚えておいて損はなかろう」
「だな。ありがとう」
「抵抗のコツは、わらわ達妖精の起こす不思議な事象は全て幻覚だと思う事じゃ。己の持つ、普通の概念を強く保て。そうすれば、大なり小なり抵抗出来る筈じゃ」
「分かった」
「ただし」
 彼女はぴっと俺に人差し指を突き付けて、
「この抵抗の方法は、わらわ達が悠に掛ける、有益な妖精炎魔法の効果をも減じてしまう可能性がある。気を付ける事じゃ」
 と、顔から笑いを消して、真顔でそう言った。
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
 俺も真顔になってそう口にすると、途端にヅィは笑みを浮かべる。
「ふむ。この際じゃ。魔法学院幼年課程から卒業までと同等の授業を丸々受けてみるかえ? わらわは教員免許など持っておらぬから、わらわ流の授業になるがの。授業料も特別安くしておいてやる故」
「……幾らなんだ?」
「魔法の妖精たるわらわの授業じゃぞ? 金銭では計れぬ。そうじゃのう。悠がわらわに仕えるというのはどうじゃ? 主従逆転というのも面白そうじゃ」
「……本気か?」
「くふ、冗談じゃよ」
 冗談には見えない笑みを浮かべながらそう言う彼女はなかなかに怖い。
 まあ、彼女に仕えるというのも確かに面白そうではあるのだが――
「……ふむ。悠がわらわに仕えるというのは、案外悪くないかも知れぬのう。そう言えばおったわ。人間の子供を何処からか攫ってきて、こき使っておる妖精が。人間の召使いなど何がいいのかと思っておったが、成る程そういう事じゃったか」
「……せめて倒れないように使ってくれよ?」
「勿論じゃ」
 くっく、と笑いながら答える彼女。
 ふと、その背中に顕現している紫電の翅に目がいって、脳裏にある疑問が浮かぶ。
「なあ、ヅィ」
「何じゃ?」
「シゥは氷の妖精で、氷の翅だよな。ネイは炎の翅。ピアは光の翅……」
「うむ。わらわ達妖精には天性色というものがあっての。妖精炎魔法を使って世界に妄想させる際に、どのような形で通すのが得意かあらかじめ決まっておるのじゃ」
「ふむ」
 得意属性、といったところか。
「この翅は身体が小さいわらわ達にとって無くてはならぬものだからの。顕現に失敗せぬよう、最も得意な形で通すのが常識になっておるが」
「じゃあ、ヅィの紫は何なんだ?」
 紫というのは、自然にはあまりない色だ。
 それに思い返せば、彼女は魔法を使う際、様々な属性の魔法を使っているように見える。
 紫という色から思い当たる属性が見当たらずそう問うと、彼女は得意げに笑みを深めた。
「さっき言ったじゃろ。わらわは魔法の妖精じゃと」
「魔法?」
「そうじゃ」
 一つ頷いて、彼女は得意げに語る。
「わらわに特別、得意な形は無い。強いて言うならば、全ての形を得意としておる。炎も、水も、氷も、風も、雷も―― わらわに通せぬ形など無い。それがこの紫の翅の意味するところじゃ」
「万能って事か?」
「その通りじゃ。妖精炎魔法の腕前で、わらわの右に出るものはおらぬと自負しておる。さらに妖精炎魔法だけでなく、精霊魔術も扱えるぞ。ノーガンウェモルがあるからのう」
「ノーガン、ウェモル?」
「悠も何度か目にしておるじゃろう。わらわが持っておる、金色の錫杖じゃよ」
 言われて、つい数十分前にも目にした金色の錫杖が脳裏に浮かぶ。
「錫杖ノーガンウェモルは、わらわが皇帝の側室入りする時の交換条件で譲り受けた物の一つでな。持ち手が精霊魔術を扱えるようになるのじゃ」
「精霊魔術?」
「うむ。例えば以前、わらわを庇って死に掛けた主を助けたのは、マヌスグの精霊魔術じゃ。妖精炎魔法は他人の身体を治すにはちと都合が悪くての。あの時は焦ったぞ」
「すまん」
「よい。わらわも、あのような物に衝突されては、妖精石が無事かどうか分からぬから、な……」
 不意にヅィの言葉が切れ、僅かに俯いて何か思い詰めたような表情になる。
 どうした? と、そう言葉を掛ける寸前で、彼女は面を上げた。
 そして、至極真面目な顔でこちらを見る。
「のぅ、悠よ」
「ん?」
「――その。わらわの、妖精石。見たくないかや?」
 そう、勇気を振り絞るかのように放たれた彼女の言葉。
 その意味を理解するのに、俺は僅かな時間を要した。
「妖精石、って…… いいのか?」
「か、構わぬ。むしろ、悠にこそ知っておって欲しいのじゃ」
 彼女にしては珍しく、あまり調子のない口調。
 それだけ、彼女達の唯一の急所に等しい妖精石の位置を知るという事は、重要な事なのだろう。
 俺は少しだけ悩んでから、彼女の提案に頷いた。
「見せて欲しい。ヅィの、妖精石を」
「……む、ぬ、わ、分かった。仕様がないの」
 照れ隠しにかそんな事を言って、ヅィは自身の胸元に指先を添えた。
 浴場に彼女の小さな吐息が一つ、響く。
 ややあって、その指先を添えたところから紫色の光が零れだしたかと思うと、一瞬の後にはそこに眩く輝く紫水晶があった。
 ミゥのものと似た、荒く削り出した岩石のようなアメジスト。
 それが、彼女の胸元。両鎖骨の丁度中央に嵌っていた。
「こ、これ。あまり、見るでない」
 俺の凝視に近い視線を感じてか、ヅィが僅かに頬を赤くして、しかし妖精石は隠さずに言う。
 だが俺は、そんな彼女の言葉など聞こえていないかのように、そっと彼女の妖精石に手を伸ばした。
 実のところ、この時点で俺は半分自意識を失いつつあった。
 彼女の妖精石が放つ紫の光に、心奪われていたからだ。
「――悠……っ!?」
 指先が妖精石の粗い表面に触れ――途端、ヅィが神経を直接触られたかのようにその身体を跳ねさせた。
 身を捩って俺の指から逃げようとする彼女のその腕を、もう片方の手で捕まえて。
 つい、と、妖精石と肌の境目を親指の腹で撫でる。
「っひ……!? 悠っ、やめ…… っあッ!?」
 小さな抵抗の気配にもう一撫ですると、あっさりとその抵抗が途絶える。
「やっ、やめよ、悠ッ、こ、これ以上は……!」
 一旦触れたが最後。
 俺は何かに取り憑かれたようにヅィの妖精石を撫で回し、彼女を昂らせていく。
 時には撫でるように。時には擦るように。
 粗いその表面を磨くかのように、強弱を付けながら指先を押し当てる。
「っっ、あ、あっ、く、こ、のッ――」
 動きはだんだんとエスカレートし、愛撫と寸分も変わらない状態になって――
「――いい加減にせぬかッ!」
 瞬間、視界が爆ぜた。
 一瞬で意識が白く染まり、直後に暗転する。
 電撃に似た凄まじい力で一瞬気を失ったと分かったのは、ややあってからの事だった。
「……ゆ、悠、大丈夫かの?」
「……な、なんとか」
 ぐわんぐわんと意識が揺れる頭を両手で抱えながら、心配げな彼女の声に応える。
 心配してくれるならもう少し加減してくれてもいいのに、などと思っていたら、やはり彼女の事。
 ふん、と鼻を鳴らして、
「悠とはいえ、あまり触れているからじゃ。これに懲りたら、次は気をつけよ」
 と、気まずげに警告をしてくれた。
「う、く…… すまん」
「妖精石を触ると言うのはの、主ら人間で言う心の臓を直接鷲掴みにされているに等しいのじゃ。もっと丁寧に扱うがよい」
 心臓に近い他、かなりの性感帯みたいだが…… それは言わないでおこう。
 それにしても……
「……ん? どうしたのじゃ?」
「い、いや。何でもない」
 そそくさと、俺は持ってきていた手拭いを股間の上に置いた。
 彼女の艶のある声を聞いた所為か、モノが勃起しかけていたからだ。
 しかし、あまりにあからさま過ぎたか、当然のように彼女に怪しまれ――
「――主よ。そういう事をわらわに隠すとは、悲しいことじゃのう」
 と、まさに人を喰ったような笑みを浮かべてきた。
「いや、これは――」
「変な言い訳は無しじゃぞ、悠。わらわの妖精石に触れていて、気が昂ってしもうたのじゃろ?」
「いや、まあ、そうなのかもしれないが……」
「そうに決まっておる」
 言って、俺の方に身を乗り出すと、股間に置いた手拭いに手を掛けるヅィ。
 抵抗する間もなく手拭いが取り払われ――彼女の眼前に半勃ちのモノが飛び出してしまった。
「くふ、半勃ちといったところかの。仕様のない主じゃ」
「く、ぬ……」
 彼女の視線が俺のモノに注がれているのが分かり、否応なく興奮が呼び起こされる。
 すると、今まで気にするまいとしていた彼女の裸身が、強い性的魅力を伴って脳に入ってくる。
 華奢でいて出るところは出ている身体や、形のいい胸とか、綺麗な曲線を描く腰周りとか、縦筋一本のみがある幼い秘所とか。
 結果、俺の興奮はより強さを増して、更にモノを勃起させる。
「くふ」
 目の前で完全に勃起したモノを見て、ヅィが笑みを強める。
 その蟲惑的な笑みに、たまらず俺は彼女の肩を掴もうとした。
 だが、彼女は俺の手をやんわりと拒絶し、ふふん、と鼻を鳴らす。
「主はどのように昂りを抑えるつもりだったのじゃ? まさかわらわと交わってという訳ではなかろ? わらわに隠そうとしたのじゃから」
「ぬ……」
「わらわと悠は好き者同士であろ? それなのに愛の営みを否定するような行為は、裏切りにも等しいではないか。反省するがよい」
 まさかお預けを喰らわされるとは思っていなかった俺は、ぐぅ、と唸りながらヅィのアメジストの瞳を見つめる。
 しかし彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべるばかりで、身体を許してくれそうな気配はない。
 思わず自分で処理するかどうかを検討に入れようとしたところで、彼女はこれ見よがしに溜息を吐いた。
「そのような不甲斐無い顔をするではない、主よ」
「ぬ、じゃあ――」
「いいや、駄目じゃ。まだ反省には時間が足りぬ」
 無情にも首を横に振るヅィ。
 しかし、彼女は次いで思案顔になり、しばしの後にまた笑みを浮かべた。
「仕方あるまい。魅力的なわらわの身体にも問題がある。身体は許さぬが――手伝いはしてやろう」
 言って、ヅィは俺のモノに手を伸ばし、ゆっくりと掴んだ。
 彼女の白魚のような小さく細く白い指がモノに絡み付き、小さな刺激を与えてくる。
「で、どうすればよいのじゃ?」
「っ、そのまま、上下に扱いたりとか、軽く握ったりとか」
「ふむ。初めて故上手く出来ぬかも知れぬが、許すがよい」
 一拍の後、絡み付いた指が運動を始めた。
 最初はゆっくりと。加減を計るかのように、慎重にモノの表面をヅィの指が撫でる。
「ふ、む。あまり、見た目のよいものではないの。おちんちんは」
 そんな事を言って、幹だけでなく亀頭やカリにも触れるヅィ。
 彼女の小さな手では全体をカバーする事は出来ないが、その分重点的というか、一箇所への快感は強い。
 じわり、と早くも切羽詰るような感覚が駆け上がってくる。
「ぬ、なにやら出てきおった」
 滲み出てきた先走りが、亀頭を伝って彼女の手を濡らす。
 あまり感触がよくなかったか、僅かに眉を顰める彼女。
 片手を離すと、僅かに白濁の混じった先走りが、つぅ、と糸を引いた。
「のぅ、悠よ。これは何じゃ?」
「カウパー氏腺液、って言う、気持ちよくなると出るんだ。先走り、とも言う」
「ほう。では、わらわは悠を気持ちよく出来ておるという訳じゃな」
 笑みを浮かべて、より熱心に俺のモノへと手を這わせるヅィ。
「しかし、身体の外側にかようなものがあるなど、奇妙な生き物じゃな。男というものは」
「そ、そうか?」
「うむ。おまけに、情欲などという一時の奇妙な感情で、こんなにも熱り勃たせおって…… っ、本当に、仕様がない」
 そう言うものの、割にあまり呆れていなさそうに見える。
 むしろ、時間が経つにつれて彼女もどんどんと熱に浮かされているようにも感じるのだが。
「っ、ふ、ん……」
 興奮が高まってくるのに比例して、互いに言葉が少なくなる。
 気付けば、モノのすぐ近くにヅィの端正な顔があって、時折、亀頭に彼女の吐息を感じる。
 その温度は、発情した生物特有の生暖かさを秘めていた。
「っ、ヅィ、そろそろ」
「ぬ…… 出るのか? その、精子とやらが」
「ああ。だから、その、咥えてくれないか」
 最後は是非ヅィの口の中で果てたいと、そう希望を出す。
 しかし彼女はそう俺が口にした瞬間、びしりと固まって困惑したような顔になった。
「こ、これを咥えろ、とな?」
「あ、ああ」
「む、ぬ」
 眉を顰め、俺のモノを睨むヅィ。
 どうやら咥えるのには抵抗があるらしい。下の器官だし、当然と言えば当然だが……
「……や、やはり駄目じゃ。第一、身体は許さぬと言うたじゃろ」
「そ、そうか」
 少しの思案の後、首を横に振る彼女。
 男としては飲み下して欲しかったのだが、手コキすら初めてのヅィにそれを要求するのは少し無理があったかもしれない。
 ならせめて顔射を、と思った次の瞬間。
「――代わりに、こういうのはどうじゃ」
 彼女はおもむろに自らの腰まである紫電の髪を手に取って、俺のモノに巻き付け始めた。
 ざらりとした、それでいて柔らかい彼女の髪が、一斉に幹やカリ、亀頭を刺激する。
「く、お」
「髪は妖精の命じゃから、な。そこでおちんちんを扱くというなら、わらわが口で咥えるのとそう遜色のない話であろ?」
 髪コキ、という行為を知る訳でもないだろうに、そういう発想に至るヅィを流石だと思わずにはいられない。
 俺は半分の感心と呆れを抱きながら、彼女の髪に出す事を決める。
 彼女に対して、こんな不敬な行為が許されるのは俺だけだ、という想いが、興奮を加速させていく。
「っ、く……!」
 ざらり、と不意に亀頭を撫でた髪の束に、俺は意識が一瞬白くなるのを感じた。
 同時、脈動が一気にモノの中を駆け上がる。
 出る、と口に出す間もなく、俺は射精を開始した。
「――ぬ、お?」
 どく、どくと紫電の髪の隙間から噴き上がって、ヅィの顔や髪をぱたぱたと白く塗っていく白濁。
 そんな光景に驚きの声を上げながら、しばし呆然とする彼女。
 射精は断続的に五秒ほど続いて、それを見届けた彼女がぽつりと呟く。
「これが、男の射精というものか……」
 彼女の白濁に塗れた手と髪が半分ほど萎えたモノから離れ、つぅ、と白い糸を引く。
 徐に手を口元に遣って精液の匂いを嗅いだのか、彼女は僅かに顔を顰めた。
「変な、匂いじゃな。甘いような、苦いような。このようなものから子供が出来るとは、少々信じがたいの」
「正確には、女性の卵子に受精して、なんだが」
「同じじゃ。ほんに人間の生態というのは、よう分からぬ……」
 匂いを嗅いだり、両手の間で糸を引かせたりして知的好奇心が満足したか、しばしの後に白濁に塗れた両手を湯桶に突っ込むヅィ。
 洗い流されていく精を勿体無いと思うのは、今までピアやミゥ、シゥは例外なく飲んでくれていたからだろうか。
「そう無念そうな顔をするでない。そんなにわらわの身体に出したかったのかや?」
「ん、まあ、な」
 そんなに顔に出ていたか、呆れた表情でそう問うヅィ。
 答えると、彼女はまた笑みを浮かべて、
「まあ、よおく反省する事じゃな」
 と、実に彼女らしく締め括った。


 風呂から上がって、ほくほくとした顔で自分の荷物を何度も確認し直すニニルを眺めながら過ごす事数時間。
 雨雲に隠れた日が山の向こうに落ちた頃、ついにピア達六人の歓迎会が開かれる事になった。
「うー、緊張しますねー」
 俺に背中を預けながら僅かに眉を歪めた顔でそう言うミゥは、先程から乳鉢と乳棒を手に何かの薬を作っているようだった。
 ネイとヅィは鏡の前に立って身嗜みを確認しているし、ピアとシゥはあまり身嗜みを気にしていなかったらしいノアに取り付いて、強制的に身嗜みを整えている。
 普段から綺麗な彼女達だが、それでも大勢の前に出て行く時はより気にするようだ。
「ほれ、悠。どうじゃ?」
 そんな事を考えながら彼女達を眺めていると、紫の翅を顕現させたヅィが俺の目の前まで飛んできて、優雅にくるりと横に一回転した。
 この状況で浮かぶ言葉など一つしかなく、それを素直に口にする。
「綺麗だよ、ヅィ」
「くふ。月並みな言葉じゃが、まあよかろ」
 笑みを浮かべて俺の賞賛に文句を言う彼女はやはり手厳しい。
 次にやってきたのは、少々驚く事にノアだった。
 鴉のような黒い羽を顕現させて俺の前まで飛んできて、無言で無表情の視線を俺の視線と絡めた後、ヅィがしたようにくるりと横一回転。
「うん。綺麗だよ、ノア」
 他の六人とは違った雰囲気を持つノアにそう素直に告げると、やはり彼女らしく、無言でピアの元に戻っていった。
 相変わらず読めない子だ、と思う。
 そこでふと疑問に思って、ピアに声を掛けた。
「なあ、ピア」
「はい?」
「全員、翅は出した状態で行くのか?」
 気付けば、ピアもシゥも、そしてネイも翅を出している。
 確かに彼女達は翅を出していた方がより綺麗に見えるし、妖精というイメージにもしっくり来るのだが。
「あ、はい。本来は私達、翅を消している事の方が珍しいのですよ」
「そうなのか」
「ご主人様と初めてお会いした時は、あまり驚かせない方がいいだろうと思って消していたのですが…… 今回はあまり遠慮する必要も無いかな、と思いまして」
「ふむ。まあ俺も翅を出してた方がいいと思うよ。何より綺麗だ」
「あ、ありがとうございます」
 しかし、と首を捻る。
「確か、触れると燃えたり凍ったりするから危険なんじゃなかったか?」
 彼女達と出会って初日にネイから注意された事だ。
 そう疑問を発すると、ヅィが笑みを浮かべて答えた。
「主よ、つい数時間前に教えた事をもう忘れたのかや? これも妖精炎魔法の一種なのじゃぞ?」
「――あ、成程」
「それに、言うならば普段の翅は待機中という状態でな。抵抗の全くない者ぐらいにしかそのような効果は及ぼさぬ。家屋や物が燃えるなどありえぬから問題ない」
「それにー、万一触って怪我をしたとしても、自己責任ですよー、それは。ボク達、翅とか髪を触られるのはだいっ嫌いですから」
 小さく笑いながらヅィの言葉を引き継ぐミゥ。
 俺も笑って同意しながら、少しばかり冷や汗を掻く。
 もしも彼女達から好感を得られぬまま、今みたいな態度を続けていたらと思うとぞっとする。
「……さて、出来ましたー」
 不意にそう言って、乳鉢の中にある濃い茶色の粉末をオブラートのような薄い紙に小分けにするミゥ。
 その数、丁度六個分。
「さっきから思ってたんだが、何の薬なんだ? それは」
「これはですねー、まあ胃腸薬のようなものですよー。今日の歓迎会は、お食事が出るんですよねー?」
「あ、ああ。そう聞いてるが」
 答えると、彼女はやや嬉しそうな顔をして、
「ボク達、もうこっちにきて一ヵ月以上、液体のもの以外口にしてませんからー。急に食べ物を口にしてお腹を壊したりしてはいけないので、その為のお薬ですよー」
「成程」
「少し楽しみですね。今までご主人様の為に料理をお作りする事はありましたが、口にする事はありませんでしたから」
「そうですね」
「じゃのう」
 ミゥから薬を受け取りながら、ピアの言葉にヅィとネイが同意する。
 そうか。よく考えれば今日で初めて、彼女達と本当の意味で食卓を囲む事になるのか……
 そう思うと、俺も非常に楽しみだった。
「じゃあ全員、準備はいいか?」
「はい」
「ああ」
「うむ」
「はいー」
「大丈夫です」
「肯定」
 頃合を見計らって声を掛けると、六者六様の返事が返ってくる。
 それを嬉しく思いながら、俺は窓際の机の上に荷物を広げて何かをしているニニルに会釈を送った。
「じゃあニニル。済まないが留守番を頼む」
「……馬鹿げているとは思いますが、まあいいでしょう」
 ニニルは苦笑して、さっさと行ってこい、とばかりに手を払う。
 そんな彼女にあくまでも攻撃的な視線を送るシゥを宥めながら、俺達は部屋を出た。


「――今日、我々の同胞に、可憐で小さな六人のお嬢様達が加わる事になった」
 およそ七十人以上が、飲み物の入ったグラスを眼前に掲げながら、大広間上席にあるステージでマイクを持つ山田さんに視線を集中させる。
「我らが夏美嬢が決めた事だ。ならばこれは歓迎すべき事であり、記念すべき事である」
 俺も何度か聞いた事がある、異様に様になっている山田さんの演説。
 内容は笑っても可笑しくないものなのに、聞いていると場の空気が統一され、一体となっていくのを感じる。
「では、お嬢様方の中から何かお言葉を」
 そう言われてピアが立ち上がり、視線が集中する中を恐れる事無く歩いていき、途中でふわりと飛び立ってステージに上がると、山田さんからマイクを受け取る。
 使い方は察していたのか、こほん、と小さく咳払いしてから彼女の言葉が流れる。
「長を務めるピア・ウィルトヴィフ・フィフニルです。この度はお招き頂き、ありがとうございます」
 笑顔ではあるものの、少しそっけない挨拶。
 それでも良しと判断したのか、山田さんはピアからマイクを受け取って、締めの言葉を続ける。
「我々の進む星天の道に、我らが女神の微笑みがあらんことを。 ――乾杯!」
「――乾杯!」
 場の全員による、一分の乱れもない唱和。
 そうして、ピア達六人の歓迎会が始まった。
 統一されていた空気があっという間に乱れ、騒がしいながらも暖かい雰囲気になる。
 相変わらずこの人達は同じマンションに住んでいるだけなのに仲間意識が強いなとある意味感心しながら、俺はグラスのオレンジジュースに口をつけた。
「――ひとまずは感謝する。礼を言おう」
 そんな声に視線を前に戻すと、ビールと思しき薄小麦色の飲料が入ったグラスを片手に持った山田さんが前に立っていた。
「あまり敵視しないで欲しい。緘口は引いてある。君達の事を外部に他言する者はこの中にはいない」
「……ありがとう、ございます」
「礼は要らないよ。夏美嬢から言われた事を実行したまでだ。テーブルが少々高いが…… 飛んでもいいし、誰に頼んでも快く取ってくれるだろう」
 楽しんで頂ければ幸いだ、と言い残して山田さんが去っていく。
 硬い笑顔のままピアは彼を見送って、その姿が人込みに消えた瞬間、はあ、と溜息を吐いた。
「大丈夫か?」
「あ、はい…… 人の視線は怖いですね、やはり」
 恐らくは挨拶に出た時の事だろう。
「敵意がないのは分かるのですが、身体が慣れていないようです」
「無理はしなくていいぞ」
「いえ、大丈夫です」
「……そうか」
 笑顔を浮かべるピアに、ならば何も言うまいと小皿に箸、フォークやナイフを手渡す。
 彼女達は俺の顔を立てる為にも出席しているのだ。彼女が大丈夫と言った以上、俺が口を出しては彼女の立つ瀬がない。
「バイキング形式の立食だが、大丈夫だよな?」
「あ、はい。ばいきんぐ、というのがよく分かりませんが、こういう形式は舞踏会などでよくありましたので」
「そうか」
 見れば、シゥやヅィはもう食器のセットを取って、料理の皿付近を文字通り飛び回りながら料理を取っているようだった。
 人込みを全く臆していないようで、軽く割り込む事すら辞していない。
「……あの子達のように振舞えればいいのですが、なかなか」
「まあ、無理はするな。俺も適当に食べてるから、辛くなったらいつでも言ってくれ」
「はい。では行きましょうか」
「はいー」
「はい」
「了解」
 微笑みながら一つ返事をして、人込みの中に飛び立っていくピアと皆。
 そこまで警戒する事は無いのに、と思いつつ、またグラスに口を付ける。
 俺も料理を取りに行くか、と思ったその矢先に、シゥが料理を一杯に積んだ小皿を危なげに二、三抱えてこちらへ飛んでくるのが見えた。
 見守っていると、俺の真隣にあるテーブルに小皿をとんとんと置いて、一息を吐く彼女。
「そんなに食べるのか?」
「食べれるけど、これはご主人の分だよ。さっきから取りに行ってもねえだろ」
「あ、ああ。ありがとう」
 今から取りに行こうとしていたとは言わず、彼女の好意に甘んじておく。
 俺の礼にシゥは、ふん、と得意げに鼻を鳴らして、その手に持っている皿からフォークで野菜サラダを取り、しゃくしゃくと小さく食べていく。
 翅で宙に浮かびながら足を組んでそうする姿は、まさしく妖精のものだ。
「どうだ? 美味しいか?」
「んー、まあな。ちょっと薄味だが、不味いってこたない」
「薄味って…… サラダが?」
「ああ。まあ何となく予想してたが、自然界の食べ物ってのはどれも幻影界にある似た食べ物より味が薄めなんだよ。特に野菜や果物はな」
 水っぽいのはあまり好きじゃないんだが、と言いつつも、小さく切られた一口オレンジや葡萄の粒を食べていくシゥ。
 彼女の抱えている皿を見ると、野菜や果物が中心で、肉ものは小さく切られたソーセージぐらいのものだ。
「肉はあまり好きじゃないのか?」
「あ? ああ。俺はあまり肉は食べないな。甘い味付けには合わないし、匂いがちょっとな…… ほら、ご主人も食えよ」
「ああ。じゃあ、頂きます」
 シゥが持ってきてくれた皿の中で肉と野菜が半々程度の割合で載っているものを選び、箸を付ける。
「ご主人は苦手なものはあったっけか?」
「いや、特に。甘いのも辛いのも大丈夫だ。シゥは?」
「俺は辛いのは駄目だな。甘いか、酸っぱいのじゃないと受け付けねえ。甘過ぎるのも駄目だけどな。 ……ご主人の精液みたいに」
「ごふっ!」
 シゥの言動に、思わず咳き込んでしまう俺。
 そんな俺を見て小さく笑う彼女。
「……そういう話は人がいる場所ではしないでくれ」
「へいへい。じゃあ、二人っきりの時にな」
 彼女にしては珍しく、愛嬌のある茶目っ気を効かせて笑ってそう言う。
 まさに妖精らしくはあるのだが、振り回されそうでなんとも怖い。
「そういやご主人、酒は?」
「飲めるが」
「よし」
 シゥは小さく舌舐めずりをすると、テーブルの中央に置かれているビールの大瓶を掴み上げた。
 彼女の半身近い大きさがあるそれの口を持って、栓の縁に親指を掛ける。
 彼女の翅が一瞬、青く瞬いて、直後に、ぽん、という音を立てて栓が弾け飛んだ。
「凄いな」
「これぐらいは造作もねえよ。ほら、グラス出せ」
 グラスを出すと、危なげなく大瓶を担いでビールを注いでいくシゥ。
 並々と酌まれたグラスを手に、俺と彼女は何を言うでもなく、乾杯の体勢を取った。
「ほれ」
「ああ」
「乾杯」
「かんぱ――」
 と、その瞬間だった。
「よう坊主! 飲んでるか!?」
 そんな声と共にがしり、と掴まれる俺の両肩。
 当然、その振動は手に持つグラスに伝わって――
「……」
「あ――」
「ん?」
 中身の半分ほどがグラスを飛び出して宙を流れ、シゥの顔に掛かってしまった。
 瞬く間に彼女の視線が剣呑な光を帯び、俺の背後にいる人物に突き刺さる。
「何だ、このちっこいのは」
「……てめえ、言い残す事はそれだけか?」
 周囲に確かな冷気が漂い、彼女の翅が淡い青の光を帯びる。
 俺は慌てて振り返り、先程俺の肩を強く叩き過ぎた――俺がある意味最も警戒していたが、ここには来ていないだろうと思っていた――人物に非難の声を浴びせた。
「ちょっと、藤田さん……」
「いいじゃねぇか、酒が掛かったぐらいで。よくある事だ」
 ぼさっとした、洗う以外には手が入れられていないであろう黒の短髪。
 細いフレームの眼鏡の向こうにある、やや細く釣り上がっている目。
 相変わらず生やしたままの無精髭が何とも言えぬ親父臭さを醸しているが、ぱっと見の外面は多少歳を食ったばかりの好青年と言っていいかもしれない。
 右頬と左目にある大きな切り傷の痕がなければ……
「……てっきり、藤田さんは来てないのかと思いましたが」
「いや、ついさっき着いたばかりだ。夏美が出てけ出てけって煩くてよ」
「はあ……」
 相変わらず夏美さんだけには甘いんだな、と思いつつ、俺の背後で藤田さんに鋭い視線を向け続けているシゥの頭を撫でる。
 トラブルメーカーなので危惧していたのだが、まさか現実になるとは。
 決して悪い人ではないんだが……
「ご主人の知り合いなのか?」
 不機嫌な顔のまま、そう疑問を発したシゥに、俺は藤田さんについて決して多くない情報から彼を語る。
「あ、ああ。藤田さんと言って、夏美さんの、確か……」
「資産運用。夏美の金をひたすら動かしてひたすら増やすのが仕事だ。いい加減覚えとけよ、坊主」
 言って、藤田さんは持っているグラスを一息で呷った。
 瞬く間に空になったグラスに、藤田さんはシゥが開けた大瓶を取って、目一杯までビールを注いでいく。
 そしてまた一息で呷る。
 ぷは、と酒臭い息を吐いた藤田さんに、ついにシゥが怒りを露にして俺の前に飛び出した。
「――てめえ、いい加減にしろよ」
「ちょっと、シゥ」
「ご主人は黙っててくれ」
 藤田さんと視線の高さを合わせ、怒り心頭といった感じの声を上げるシゥ。
 しかし藤田さんは彼女の怒りをあまり意に介した風もなく、んー? といぶかしむ様な唸りを上げ、
「そうキレんじゃねぇよ、ちっせえ嬢ちゃん。第一あれだ、そのちっさい成りでそんなに酒が呑めるのかよ?」
「……試してみるか? 無駄に図体のデカい木偶に負ける気はないぜ」
「言うじゃねえか」
 そんな言葉の応酬を交わすなり、シゥは藤田さんの手にしていた大瓶を奪い取り、その中に半分ほど残っているビールを一気にラッパ飲みし始めた。
 彼女の身体の大きさと大瓶の大きさを見比べて思わず不安になるが、彼女は難なくビールを飲み干して、けぷ、と小さな息を吐いた。そして不敵な笑みを浮かべ――傍のテーブルにある、もう一本の未開封の大瓶に手を伸ばした。
 これには藤田さんも多少は面食らったようで、やや目を見開いてシゥの動向を見つめている。
 俺と、藤田さんと、僅かな他の人の視線の中、シゥは二本目の大瓶の栓を開け、再びラッパ飲みし始めた。
 瓶が空になったのは僅か数秒後の事。
 今度はおくびにも出さず、服の裾で口元を拭った後、また不敵な笑みで藤田さんを睨み付けた。
「やるな、嬢ちゃん。その成りで」
「成りは関係ないだろ。てめえは呑めるのか?」
「勿論だ。今から見せてやるよ」
 火花を散らして睨み合う二人。
 俺は苦笑しながら、結構気が合うのかもしれない、と二人の関係に対する評価を改めたのだった。


 気が付けば、宴も酣といったところだった。
 何があったのか、ピアは山田さんと談笑していたし、ミゥは給仕に来た例のスーツの老人と、これも何事かを談笑していた。
 シゥはまだ藤田さんと張り合っているようで、浴びるように酒を呑みながら、しかし笑い合っていた。あの分なら仲については問題なさそうだ。
 途中から誰か一曲歌えという流れになって、名乗りを上げたネイが見事な歌声で幾人をも魅了していた。今もアンコールを乞われて、恥ずかしげにしながらも次に何を歌うかを考えているようだった。
 ノアはというと、何故か子供達によってたかられて遊ばれていた。
 一体どういう経緯でああなったのか知る由も無いが、なかなかの人気者のようで何よりだった。第一、彼女も何となく楽しそうだったのが大きい。
 俺はほんのり熱くなってきた顔をぺし、と平手で叩いて、グラスのジュースを飲み干した。
 歓迎会は成功と言っていい状況で、ここまで楽しかったのは近年でもあまりない。
 夏美さんと山田さんに感謝しないといけないな、と思いつつ、また一口、グラスに口を付け――不意に、ジーンズの裾を、くいくい、と引かれる感覚があった。
「ん?」
 視線をやると、そこには子供達に遊ばれていたノアの姿があった。
「――ヅィ・パルミゥル・ウルズワルドの体調に急激な変化あり」
「何?」
「会場南側出口付近」
 思わず聞き返したが、彼女は詳細を答える事なく、ただ場所のみを告げて人込みの中に消えてしまった。
 確かに見渡しても、ヅィの姿が見当たらない。
 その上、体調に急激な変化あり、と言われては、どうしても不安になる。
 俺は人込みを避けながら、慌ててヅィの姿を探し始めた。
 幸い、ノアに言われた通りに会場南側の出口付近に行くと、すぐに彼女の姿は見つかった。
「――ヅィ!」
「……む?」
 ヅィはテーブルの一つに腰掛け、グラス片手に一人で宴を見つめていた。
 俺の声に俺の姿を見付けると、笑みを浮かべてこちらに片手を振る。
「どうしたのじゃ、悠よ。そのように慌てて」
「あ、いや…… その、大丈夫か?」
「ふむ? 要領を得ぬな」
 ノアから警告があったとあえて伝えずにいると、彼女は曖昧な笑みを浮かべて、
「大丈夫じゃよ。少々気分が悪くなっての。少し人込みから離れた場所にいるだけじゃ」
 と答えた。
 ただ、いつもとは違う、どこか緩んだような笑みに何故か不安が募る。
「部屋に戻るか?」
「心配要らぬ、と言いたい所じゃが。折角の主の好意じゃ。頼めるかえ」
「分かった。ちょっと待っててくれ」
 俺は急ぎ足でヅィの元を離れ、ピアの所に行く。
 ヅィの体調が良くないから先に部屋に戻る、と伝えると、ピアは一瞬怪訝な顔をした後、安静にしているように、との言葉を俺に預けた。
 そして再び急ぎ足でヅィの所に戻る。
 遠目から見た彼女は、心ここにあらずといった、どこか異様な視線で人込みを眺めていた。
 強がっているだけで、実際はかなり体調が悪いのかもしれない。
「お待たせ」
「……」
「ヅィ?」
「……む、悠か。待っておったぞ」
 呼び掛けても一瞬反応が無かった事に、本当に大丈夫なのだろうかと思う。
 よく見れば顔は赤いし、息も僅かに荒いようだ。
「……なんじゃの。人の顔をそんなにまじまじと見おって」
「いや、何でもない。行くぞ」
 言って、俺はヅィの身体を抱え上げ、肩車の体勢を取る。
 両手で抱き抱えるのが良かったのだが、翅が出ている今はそれをすると翅を押し潰してしまう可能性がある。
 彼女が俺の後頭部に身体を預けたのを確認して、俺は会場を後にした。
「なあ、ヅィ」
「……なんじゃ?」
「本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃと、言っておろ?」
 俺の確認に、言葉だけで答えるヅィ。
 彼女は大丈夫だと答えたが、肩車をしている今ならはっきり分かる。
 人間で言うなら、明らかに風邪か何かを患っていると言っていいほどの、後頭部に感じる彼女の体温。
 はあ、はあ、と苦しげに吐かれる、彼女の吐息。
 時折、苦痛を堪えるように過剰に力が込められる彼女の四肢。
 それらの全てが、彼女の体調が良くないという事を示していた。
 自然と早くなる俺の足。
 ものの数十秒で部屋に辿り着き、和室を通り抜け洋室に入って、彼女をベッドの上に降ろした。
「すまん、の」
「気にするな。水でも持って来るか?」
「いや、いらぬ。傍におってくれれば、それでよい」
 言って、ヅィは着の身の上に翅を出したままベッドに横たわった。
 傍にいてくれと言われ、どうすべきか少し悩んで、やはり添い寝が一番なのだろうという結論に達する俺。
 ゆっくりと彼女の隣に横たわると、彼女はベッドに伏せていた顔をこちらに向けた。
「のう、悠よ」
「ん?」
「前もって断っておく――すまんの」
「……おいおい、なんか不吉な話だな」
 ヅィのそんな言葉を軽く笑うものの。
 彼女の視線が、妙にぎらついている事に俺は気付いた。
「……ともかく、無理はするな。寝よう」
「うむ……」
 ヅィの顔が再びベッドに伏せられる。
「主よ」
「うん?」
「傍に、おってくれよ?」
「ああ」
 すぐに答えた事に安心してくれたか、ややあって静かになるヅィ。
 俺は彼女との言葉を守る為にそのまま添い寝し続け――やがて俺の意識も闇の中に落ちていった。

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 ここまで一気に読ませて頂ました。
 キャラクターの描写が素晴らしい。そのおかげで彼女たちの魅力を堪能している間にいつの間にかなにやら難しげな設定もサクサク読み進められました。
 印象に残ってるの場面は、主人公の事故を通して彼女たちが世間に明るみになった所。この場面に不安を感じた瞬間、自分がこの物語に引き込まれていることを強く感じました。
 彼女たちは辛い過去を持っているみたいですが幸せになってくれると嬉しいです。これからの展開も期待してます。それでは。
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