2ntブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

フィフニルの妖精達34「Body and Soul」

 森が焼けていく。
 獣達の亡骸が無数に横たわる広大な森が、紫色の炎に飲み込まれて消えていく。
 あまりの熱気故にか、森の中央を流れる大河が煮え立ち、獣達の血を吸って赤くなっていたその姿を消していく。
 炎は森の周囲に広がる荒野の大地さえも燃やし、溶かして、黒と灰色の大地へと変えていく。
 動いている生物はたった一匹。
 全身を赤黒く染めた――元は優美な漆黒であったのだろう毛並みを持つ、巨大な狼に似た生き物。
 彼はその五メートルを越す全身を紫の炎に包まれながらも、荒野の崖の上から空を睨んでいた。
 視線の先、紫に照らされる空の向こうには、黒い満月。
 いや――正確には満月ではない。黒いそれは時折生物のように蠢いて、周囲に羽虫のようなものを群がらせている。
 そして不意に、その黒い物体から何かが放たれた。紫色に輝くそれは、徐々に見かけの大きさを増しながら空を動いていく。
 小指の先ほどの大きさになった時、ようやくそれが何なのか理解できた。
 燃え盛る、巨大な肉の塊。
 切除したばかりの癌細胞のようなそれが、紫の炎を纏いながら大地へ落ちてきているのだ。
“――!”
 黒い狼が吠える。怒りが込められた絶叫のような遠吠え。
 そしてしばしの後、その狼がいた崖を肉の塊が押し潰した。


 ふっ、と目が覚める。
 開いた視界には、白い布団と畳と、年季の入った木目の天井と、そこに付けられた電灯。
 ……夢、か。
 先程まで見ていた光景をそうだろうと判断して、上体も起こさないまま天井の木目を見つめる。
 三人称視点だったというのに、やけに生々しい夢だった。匂いを感じなかったせいで夢だと分かったぐらいで、それを除けば本当にあった光景だとしか思えなかった。
 ――いや、事実あった光景なのかもしれない。侵略者との戦いの果てに倒れた獣の王。黒い魂。
 あの巨大な狼が持っていた無念を、俺が夢として見たのだろうか。
 目覚めた時には魂の入れ替えは終わっていると言っていた。ならば、今の俺は既に――
「――おはよう。いい夢は見れたかな?」
 言いながら音もなく襖を開けて入ってきたのは、昨日の白い少女。俺を見て、ほう、と何故か感心のような吐息を吐いた。
「見立て通り、なかなか適性は悪くなかったみたいだね。どうかな、身体の調子は」
 ああ、そんな悪くな、い――?
 起き上がりながらも声を出そうとして、俺は気付く。
 声が出ない。何事かと思って手を口許に当て――その手が漆黒の毛に包まれ、肉球と爪を備えているのを見てしまった瞬間、俺は自分の身に何が起きたのかを知った。
 まさか、これは――
「そのまさか、だよ。それが私達が君に与える試練だ」
 言って、白い少女が後ろ手に持っていた鏡を、意地の悪い笑みと共に俺の鼻先へ向けてくる。
 俺の身体は、夢で見たあの黒い狼のものに成り果てていた。体長は半分以下になっているが、間違いない。
 馬鹿な――
 言いながら、俺は身体を起こす。
 ちゃんと普通に“立った”はずなのに、俺は四足歩行の動物がそうするように立っていた。昨日よりも格段に低い位置に視線があり、白い少女の腹の辺りが正面に来てしまう。
 首を動かしても、己の身体は殆ど見えない。
 手を動かすと前足が、足を動かすと後ろ足が動くというのに、歩こうとすると前足と後ろ足が連動して動く。
 とても奇妙な感覚だった。
 しかしそれより重要なことは、言葉の一切を発することが出来ないということ。
「君と彼女達は言葉以上のもので繋がっている。そう言ったね? それを証明してみて欲しいだけさ。 ――ほら、ふたりが目覚めるよ」
 言われて、俺はまだ布団の中にいるネイとニニルに視線を向けた。
「ん、う……」
 先に呻いたのはネイ。眉を歪ませて眠り辛そうになりながら、俺が横たわっていた位置にゆっくり手を伸ばしている。それが空を切った瞬間、ぱちりとその瞼が開いた。がばりとその小さな身を起こし、赤い髪を振り乱しながらさっと周囲を確認して――白い少女と、そして狼の姿に変わり果てた俺に視線を止めた。
 そして、僅かに震えている小さな唇が開かれる。
「――ご、ご主人、様……?」
 戸惑いの色をありありと浮かべ、ネイはそう呟くように言った。
「んん…… どうしたんですか……?」
 そんな声色に反応したのか、ニニルも瞼を擦りながら上体を起こし、くあ、と小さな欠伸をして、ぽんと俺のいた位置に手を着き――瞬間、ネイと同じようにすぐさま周囲を確認して、そして俺に視線を止める。
「クフィウル――? いえ、これは…… まさか、悠?」
「ご名答だよふたりとも。これが君達のご主人様の新しい姿だ」
「な、なんてことを――!」
 ネイが即座に白い少女へ食って掛かる。しかし少女はどこ吹く風という風に、小さな笑みを零した。
「顔真っ赤にして怒る前に、ちゃんと考えた方がいいんじゃないかな? そもそも君は人間の姿をしたままの彼をどうやって匿うつもりでいたんだい?」
「そ、それは――」
 的確な質問に、ネイの勢いが衰える。
 確かにそれは重要な問題だった。エイルに顔が割れている以上、遭遇すればその時点で終わりなのは間違いなかった。加えて人間が外敵として排除される環境に俺がそのままの姿で向かうことは相当な難問だったのだから。ネイやニニルが庇ってくれたとしても、そんな異分子のことはすぐに噂になってエイルの元に届き、やがて遭遇することになっていただろう。そうなればあの夜の二の舞になる可能性は高かった。
 そしてその問題は、確かに解決された。だが、これでピア達の元にさえ駆け込めれば解決、という訳にも行かなくなってしまった。
 そもそもこれは戻れるのだろうか――
「無事に目的を果たしてこっちへ戻って来れたら、元の姿に戻してあげるよ。それを君がその時にまだ望むなら、だけど」
 何やら小悪魔的な笑みでそう言う白い少女。この姿が絶対に気に入るから、とでも言いたいのだろうか。
 それにしても――
“読めるんだな、こっちの思考”
「勿論」
 俺が脳内で意識した言葉に白い少女が頷く。俺に手を伸ばし、犬にそうするように撫でてきた。
 振り払うわけにもいかずに撫でられる。慣れてでもいるのか存外に心地良くて、俺は思わず目を細めた。
「ご主人様に触らないでください!」
 瞬間、また噛み付いてきたのは勿論と言うべきかネイ。たっと俺の傍に駆け寄ると、俺の身体を抱き寄せるようにして白い少女から奪い取る。
 勿論、狼になったとは言え俺の方がまだまだ図体が大きい――というか、視線の高さはネイやニニルより少し高いぐらいになったものの、体格としては人間の姿よりも二回り以上大きいのではないだろうか。今はできそうにないが、両足で立とうものなら二メートル近くなるだろう。
 そんな調子なので、俺はネイに促されるまま仕方なく白い少女の手元を離れる。おやおや、という様子の少女に対し、ネイは俺の首回りに抱き着いたまま、警戒心を露にして少女を睨んでいる――ように見えた。
 俺の脳内に、ネイの声で言葉が流れ込んでくるまでは。
「(うわ…… 凄い、ふわふわ…… 撫でたい。撫でていいかな。でも悠様怒らないかな…… でも撫でたい)」
 思わずネイの顔を横目で窺う。彼女はやはり白い少女を睨んでいる。喋った様子はない。では、先程の声は――
「おや、ちゃんと通じているようだね」
 俺のそんな様子を見てか、白い少女がくすくすと小さい笑いと共に言う。
 その言葉の意味するところが分からないのか、ネイは更に警戒心を強くしつつ、俺に抱き着く力を強めてくる。
「(本当になんなのこの人間…… 昨日からそうだけど、悠様に馴れ馴れしいし、悠様をこんな―― でも、ちょっと格好良いかも。クフィウルに似てるけど、勇ましい感じだし。あ、悠様の匂いがする…… でも、前よりいい匂いかも…… 本当に悠様なのよね。騙されてる可能性も…… でも、この感じとミゥっぽい妖精炎は悠様に間違いない)」
 ……間違いない。
 頭に流れてきているネイの声は、恐らくはネイの思考だろう。密着すれば密着するほど感じ取れるようで、今は駄々漏れに近い状態のようだ。止めどなく声が溢れてきて、少し煩いぐらいに感じる。
 警告してやりたいところだが、いかんせん声が出ない。
“なあ。声の代わりに何か伝える方法はないのか?”
「それがあったら試練にならないだろう? 自分で何か探すことだね」
“そうか”
 駄目元で聞いてみたが、やはり不可のようだ。
 仕方ないので、今も俺について熱い思考を垂れ流すネイを少し苦しそうにして振り払う。
「――あ、す、済みませんご主人様。苦しかったですか?」
 そういう訳ではなかったのだが、詳細な理由を伝えてやることが出来ないのが心苦しい。仕方なく首を左右に振って、それとなくネイから離れる。途端に寂しそうな顔をする彼女を横目に、先程から黙っているニニルに視線を向けた。
 ニニルの視線は真っ直ぐに俺を見ている。真剣な表情。彼女がこういう顔をする時は今までに何度かあった。何を考えているのだろうか――そう思って、俺には声の代わりに便利な能力が備わったことをすぐに思い出す。のっしのっしとニニルに近寄ると、そこで彼女は思考の姿勢を解いて、俺に一言言った。
「お座り」
 どこかで聞いたことのあるフレーズに、俺は僅かに逡巡する。
 ニニルはそれまでの真剣な表情は何処へやら、期待に満ちた顔で瞳を輝かせながら俺を見つめている。
 仕方なく、まあそれぐらいなら、と思って、俺は犬などがそうするように座った。
 そしてやはりと言うべきか、ニニルは更に鳶色の瞳を輝かせながら言い放った。
「お手」
“……”
 その表情がニニルにしてはあまりにも可愛かったからだろうか。俺は一瞬の逡巡の後、ぽんと前足をニニルの手の上に置いた。大きさの比が三倍以上あるので、置いたというよりは被せるような形になったが……
 ――瞬間、流れ込んできたあまりの思考の波に、俺は言葉を失った。
「(凄い凄い凄い凄い凄い! 可愛い! これ悠なんですよね!? ということは、どれだけ撫でても抱きついても引っかかれたり噛まれたりしないってことですよね!? うわ…… まずい、鼻血出そうです……!)」
 ……ニニルは大型犬フェチの気があるのだろうか。
 不意に、じり、とニニルが一歩近寄ってくる。俺は本能的な恐怖を感じて一歩下がろうとした。が、身体の構造のせいか上手く後退することが出来ない。距離が詰まる。思わず悲鳴を上げそうになったが、やはり声は出ない。
「貴方が本当に悠なら動かないでくださいね。ちょっと確かめたいことがあるだけですから」
“嘘つけ! 死ぬほど抱き着く気だろう!”
 更に一歩の距離が詰まり、ニニルが手を伸ばしてくる。俺は恐怖に駆られつつも、ニニルの台詞にその場に留まることを余儀なくされ――
「――ほらほら、そんなお熱いことばっかりしてないで。朝食の準備が出来てるから取り敢えず食べよう」
 そこへ割って入ってくれたのは、白い少女の声だった。
 あからさまに舌打ちをして、ニニルがその動きを止める。俺がひとつ安堵の吐息を吐くと、白い少女はそんな俺の思考も読めているのか、くすくすと笑った。


 白い少女が界の鏡のある部屋とは違う方向の襖を開けると、そこには見事な食卓が準備されていた。
 丸い卓袱台の上に乗ったご飯、焼き魚、味噌汁の三点セットが三食分。
 どれも出来立てのようで、ゆらゆらと立ち上っている湯気が食欲を誘う。
 ――が。
“すまん、俺の分はあるのか?”
 そう脳裏に言葉を思い浮かべ、白い少女を見る。
 というのも一瞬失念しそうになったが当たり前で、俺はもうこの形式の食事を取ることは出来ないのだ。
 何しろこの獣の手では食器は当然、食べ物を掴んで口に運ぶことさえ出来ない。
「ああ、大丈夫。ちょっと待っててくれ」
 言いながら、白い少女は卓に着く。そしてネイとニニルに向けて手招きをした。
「ええと…… ご主人様はどうすればよいのでしょうか
 しかし当然のようにネイは渋る。ニニルはドライに着席したが、一応気にしてくれてはいるのか俺と白い少女を交互に見た。
「大丈夫。さっきも彼に言ったけど、もう少しで来るよ。彼は気にするなって言ってるから、私達は先に頂こう」
 まだそんなことは言ってはいないのだが、そのつもりだったので良しとしよう。
 そっと伏せて待つ。そうすることでネイも俺がそのつもりだと分かってくれたのか、渋々といった様子で着席した。
「で、では、お先に頂きます、ご主人様」
「うん。頂きます」
「頂きます」
 三人が食べ始める。それを横目に見ながら、俺はぐるりと周囲を見回した。
 部屋の片面が障子になっていて、そこから朝の白い光が差し込んできていること以外は俺達が眠っていた部屋と何一つ変わらない部屋だ。
 あの神社のどの辺なのかは具体的には分からないが、恐らくは奥の方なのだろう。
「――さっきから気になってたんですが、貴方は悠と話せるんですね?」
 と、食事をしつつもニニルが白い少女にそう問う。少女は勿論という風に頷いた。
「正確には、彼が取り込んだ魂を経由して、私の方に彼の思考が流れ込んでいるという具合だけどね。彼は今までの知能は普通に残ってるから、それを汲み取って話をしているだけさ」
「あの、私達にもそうして頂けるようには出来ないのですか?」
 ネイが若干身を乗り出しながら言う。確かにそれが出来れば幸いだが、俺の予想通りに白い少女は首を横へ振った。
「それが出来ると試練にならないからね。私達としても心苦しいけど、我慢して欲しい」
「そう、ですか……」
「大丈夫。お互いを信じていればきっと上手くやっていけるよ。後、彼が彼だと知らせるのも禁止だ」
「そ、それは――」
「理由は同じ。それをすると試練にならないからね。加えて、これは安全性の面でも君達には悪くない話だと思うよ」
 言葉は封じれない。何処かから漏れるものさ――どこか感慨深げに言って、白い少女は、ずず、と味噌汁を啜る。
 白い少女の言いたいことは確かに分からないでもない。不安げに俺へ視線を送ってくるネイに、大丈夫だ、と意思を込めて首を縦に振る。
 あまり言いたくはないが、俺が来ていると知ればピア達の様子は目に見えて変わってしまうだろう。そこから察されてしまう可能性は決して低くはない。
 最も望ましいのは、どうにか五人をこちら側に連れ戻してから正体を明らかにすること。
 それには、この姿で五人の信頼を得ること――確信はないが、俺かも知れない、という考えを五人に持たせることだ。言葉に頼らずして。
 そういう意味で「試練」なんだろう。そう思いながら白い少女を見ると、よく分かってるじゃないか、とでも言いたげに意地の悪い笑みを浮かべた。
「――分かりました。あと、お聞きしておきたいんですが、貴方達は一体何者なんですか?」
 ネイがまだ戸惑っているにも関わらず、ニニルは先に了承して次の質問をする。それは昨日、聞いてみようと話していたことだ。
 答えるだろうか。答えない可能性も多分にある。そう思っていたのだが、白い少女は小さく笑い、
「私達か。私達には今、それらしい名前はないよ。かつては護国と呼ばれていたこともあったけれど」
 そう、どこか寂しそうに言った。
「護国?」
「そう。国の護りと書いて護国。護国院。護国課。まあ、今はそんなことはしていないけれどね――さて」
 白い少女が態とらしく話を切り、障子の方に視線を向ける。途端、そこに影が差し、すっと開かれた。
 入ってきたのは――柳瀬さん。その手に盆を持っている。
「お待たせ致しました」
「彼に」
「はい。 ――では、失礼致します」
 そんな短過ぎるやり取りを交わして、柳瀬さんは盆の上にあったものを俺の眼前に置くと、そそくさと退室していった。
 何か決まりごとでもあるのだろうか。さておき――
“正直に言って、展開的にドッグフードぐらいは覚悟していたんだが”
 僅かに白い少女を睨みながら言う。
「――ふ、ふざけているのですか!?」
 激昂して席を立ったのは勿論と言うべきかネイ。
 何故なら、俺の眼前に置かれた平皿の上にあったものは、鮮血が滴るような生肉の塊と真っ赤な林檎が丸々ふたつだったからだ。
 声を荒げるネイと俺の睨みに、白い少女は少しだけ真顔になって言う。
「ふざけてなんかいないよ。食べてみるといい。実に口に合うと思うよ」
“……大丈夫なのか?”
「君のその身体は生肉ぐらいでお腹を壊したりはしないよ。加えて言うなら生半可な病気には罹らない。嘘だったら私を食べるといいさ」
“……”
 俺は独特の匂いを放っているそれを、じっと睨む。
 恐らく、白い少女の言っていることは事実だろう。この身体が――この身体の本来の持ち主が生肉ぐらいで腹を壊すなど、あってはならないことだ。そして昨日までの俺の味覚とは違い、この生肉を美味しく食えるであろうことも。
 だが、それとこれとは別の問題も存在するわけで。
“……一応聞いておくが、何の肉だ?”
「多分、牛じゃないかな。某宗教徒なんて言わないよね?」
“大丈夫だ”
 恐る恐る足で肉を押さえ、南無三、とばかりに齧り付く。
 ぞぶり、と形容しがたい感触と共に、口の中に生温い感触が残る。驚くべきことに、肉の塊は俺の牙によって綺麗に齧り取られていた。
 そして少しだけ咀嚼して、飲み込む。
「どうだい? 私は食べられるのかな?」
 白い少女が尋ねてくる。ネイもニニルも心配げな様子で俺を見つめている。
 俺はややあって、自分でもその事実を認めながら、脳裏に言葉を吐き出した。
“……美味しい”
 そう。白い少女の言う通り、確かに美味しかった。
 肉自体もそうだが、何より美味しさを感じたのは芳醇とさえ思える鮮血。
 まるで吸血鬼のような感想だが、確かに美味かったのだ。以前に自分の血を舐めた時、鉄臭いお馴染みの味しかしなかったのが嘘のように。
「美味しいってさ。予想以上に上手く噛み合ってるみたいだから、心配しなくていいよ」
「本当、なのですか……?」
「疑うなら、君が彼に身体を差し出してみるといいよ。実に美味しく食べてくれるんじゃないかな」
 白い少女がそう冗談めかして言ったにも関わらず、ネイは俺と視線が合うとびくりとその身体を震わせた。
「っ……」
 自分でもその震えが分かったのか、慎重に深呼吸をするネイ。
 再びその紅玉の瞳が俺を見つめた時、そこに怯えの色はなく――代わりに何かを決心したかのような顔があった。


「――では、心の準備はいいかな?」
 食事を終えてすぐ。俺達と白い少女は再び界の鏡の前にいた。
 白い少女が界の鏡の縁を撫で、昨日のように操作を始める。映し出されたのは、昨日と変わらないように見える紫色の大森林。
「はい」
「大丈夫です」
“ああ”
 ネイとニニルがそれぞれ答える。
 俺も脳裏に言葉を浮かべると、白い少女は小さな笑みを浮かべて、そっと映し出されている景色に指先を添えた。
「一応、これは仕方のないこととして言っておくけれど。こちらと向こうでは時間の流れが違う。悪いと、何年も先に飛ばされてしまうこともありえる。この界の鏡も古くて、かつ神代の代物だから上手い調整が出来なくてね…… 出来る限り上手くやるつもりだけど」
 言いながら、その調整とやらをしているのか、指先を景色の中に沈める白い少女。
「君達にはアンカーを打ち込んでおくから、こっちに戻ってくる時は君達と一緒なら五人もまとめてこの時間に戻ってこれる。そこは心配しなくていいよ」
「ありがとうございます」
「これぐらいは義務だからね。さて―― 完了だ」
 沈めていた指先を離し、水面のように波立つ界の鏡の表面が落ち着いてから、そっと白い少女は告げた。
「あとはこの景色の中に全身を沈めるだけでいい」
「――では、私が先に」
 最初に名乗りを上げたのはニニル。翅を震わせてすっと浮かび上がり、界の鏡の表面に掌で触れる。
 そして、ちら、と俺とネイを見た。
「向こうで会いましょう。では」
 そう言い残して、ニニルはその景色の中に身を投じた。景色が水面のように波立ち、やがて静まっていく。
「さ、次だ。赤い君、先に入るといい」
「……はい」
 指名されて、ネイは名残惜しそうに俺の傍から離れると、ニニルがそうしたようにそっと界の鏡の表面に掌で触れた。
「では、ご主人様。お待ちしております」
 言って、彼女も景色の中に身を投げた。
 景色が水面のように波立ち、やがて静まっていく。
 俺も鏡に近付いて、両前足を鏡の縁に掛けた。前足の半分が景色の向こうに消える。温かくも冷たくもない、奇妙な感覚。
「では、行っておいで。世界を跨ぎ、深淵を覗く者よ」
“――ありがとう”
 暖かい笑みで俺を送り出してくれる白い少女に何を言うべきか迷って、結局そんな適当な言葉しか思い浮かばず。
 俺はその気恥ずかしさを隠すように、前足で身体を持ち上げて、のそりと界の鏡の縁を乗り越えた。


 景色の向こうは白い輝きが満たされた空間だった。身体を支えるものは何もなく、俺は当然のように真っ逆さまに落ちていく。
“――!”
 思わず悲鳴を上げそうになるも、声が出なかったせいで無様なことにはならなかった。
 やがて身体が落下に慣れ、逆さまになっていた姿勢を正す。
 もう上を見上げても、俺が何処から落ちてきたのかは分からない。
 上下左右、何処までも白い輝きに満たされた空間を俺は延々と落ちていく。
 あまりの長い落下に、このまま地獄へと続いているんじゃないか――そう思えてきた頃。
 眼下に暗い虚のような穴が見え、俺の身体は吸い込まれるようにその中へと入り込んだ。
 瞬間、視界が暗転する。


 長い浮遊感の後、凄まじい衝撃が俺の身体を襲った。
 したたかに背中を打ちつけたような感覚。肺の中から空気が飛び出し、まるで窒息したかのような息苦しさを覚える。
「――だ、大丈夫ですか、ご主人様」
 苦しげなネイの声が聞こえる。声の方向に視線を向けると、地面に這い蹲って息を整えるネイとニニルの姿があった。
 三人――いや、ふたりと一匹で揃って息を整え、ややあって起き上がる。
 そうすることで視界に広がったのは、勿論というべきか先程までの祭殿内ではなかった。
 天を突くような木々が幾つも立ち並ぶ森の中。蛍のように朧気な光が幾つも宙を漂い、薄紫の闇色に包まれた大森林を仄かに照らしている。
 天空には、恐ろしく巨大なふたつの月。
 独特の空気に、身体の芯を撫でるような異質の感覚。
「……本当に、帰ってきたんですね」
「です、ね。間違いありません」
 そんなネイとニニルの、少しばかり感動に満ちたような声が、ここがどこなのかを物語っていた。
 幻影界。俺が生まれた世界とは異なる力が支配する世界。
 そして、俺の求める妖精達が生まれた世界。
「ご主人様、お身体は大丈夫ですか?」
 身を起こし、何とか地面に四足を着いた俺の元にネイが寄り添ってくる。
 彼女が俺の横腹に手を触れると、そこを中心として仄かな熱が全身に広がり、残っていた痛みを片っ端から取り除いていく。
 俺は、大丈夫だ、という意思を込めて、首を小さく縦に振った。
 伝わったのか、ネイは小さく微笑む。
「ここは比較的帝都に近い場所です。南に一日ほど進路を取れば巨大なグリムワットの木が見えてきます。そこが帝都ウルズワルドです」
 そう言って、ネイは目印も何も必要とせずに、ある一方向をさっと指差した。
「では――行きましょうか、ご主人様」
 先導してくれるネイとニニルの後に続き、俺は四足で大地を踏み締め、歩き出した。


 歩くこと数十分以上。
 一見するとまるで景色に変化のない森の中。時折目にする独特の虫や植物が、唯一の変化と言っていいだろう。
 例えば鋭い角を生やした兎のような生き物。前足を使って拳大の木の実を運んでおり、俺と視線が合うと一目散に逃げ出してしまった。
 臆病なのだろうか、と思うも、すぐに自分の姿を思い出す。無理もなかった。
「――そう言えば、ウルズワルドを目指すのはいいですけど、そこからどうしますか?」
 と、黙々と前を進んでいたニニルが口を開く。相手はネイだろう。
「そうですね…… まず、族長かヅィさまに――」
「それは無理でしょう。今がいつなのか分かりませんが――エイルが警戒していたら、まず私達ふたりは王城に入らせては貰えないでしょう。第一会ったところで、悠のことをどう説明するんですか? あの人間の言葉に従うなら、悠のことは言えませんから――私達は向こうに悠を放り出してこっちに戻ってきたことになります。悪いとお小言では済まされないと思いますよ」
「……そ、そうです、ね」
 少しだけ呆れたように反論を並べるニニル。
 こういうことに強い彼女がいてくれて助かる。ネイが悪いわけではないのだが。
「ウルズワルドに入る段階で取り調べを受けると思った方がいいでしょう。その時、どんなに屈辱的なことを言われたとしても怒っちゃ駄目ですよ? 最近のネイさんは見てて危なっかしすぎます。悠が大事なのは分かりましたから、もう少し抑えてください。で――」
 そこでニニルはちらと俺を見る。
「安全第一に考えるなら、悠は私達と一緒にウルズワルドに入らない方がいいでしょう」
「ど、どうしてですか?」
「当然、私達と一緒に入れば注目されるからですよ。悠は今、クフィウル似の獣とは言え、外見がかなり立派ですから…… 加えて、エイルのことです。私達と一緒に何かがいれば、それを警戒してくる可能性は高いでしょう。最悪感付いてくるかも知れません。彼女、かなり勘がいいですし」
 記者という仕事の関係上、エイルにも何度か会って取材なりをしたことがあるのだろう。ニニルの対人観察眼はかなりのものと言えた。その彼女がこうまで言うのだから、確かに危険かもしれない。
 ふたりの会話の合間に、俺の頭の中で考えていた作戦を幾つか破棄していく。
「では、どうするんですか?」
「……私にもそれほど名案というのは思い当たりませんが、まずは情報収集が最優先だと思います。今は世界標準歴何年なのか。五人が帰ってきてから何が起こったか。帝都の雰囲気。五人が普段どこにいるのか。エイルの動向。この辺りを掴んでから、具体的な案を考えましょう。それまで、悠は帝都からそれなりに離れた場所で待っていて貰うしかありません」
「で、でも……」
「悠を一人にしておくのが不安なのは分かりますが、それしかありません。私もラーザイル報道局に戻って動かせる人を動かしますが、それだけでは手が足りませんし、あまり派手にやるとエイルの気を引き過ぎてしまいます。ネイさんの人脈も必要です」
「……分かり、ました」
 俺を一瞥し、不精不精と言った様子で頷くネイ。
 声を掛けてやれればいいのだが、今はそれもままならない。
 心の試練と白い少女は言っていた。お互いを信じていれば大丈夫、と。
 俺はネイを信じていられるのだろうか。そしてネイは俺を信じていてくれるのだろうか。
 先はまるで見えない。


「――では、ひとまずこの辺りにしましょう」
 もう何時間歩いたか分からなくなってきた頃。一際太いの木の根元でニニルが唐突に言った。
「ここからならウルズワルドまで飛んで数刻ですから、丁度いいぐらいだと思います」
 言いながら、ニニルはネイの傍を離れ、俺の傍までやってくる。
「悠、先程も聞いていたと思いますが、帝都にはひとまず私とネイさんだけで行ってきます。三日かそれぐらいでひとまず戻ってくるつもりですので、この辺りで声が届く範囲から絶対に動かないでください。退屈だとは思いますが、なるべく他の妖精族や精霊族に見付からないようにお願いしますね。勿論、危険な生物にも」
“分かった”
 返事の代わりにひとつ首を縦に振る。
 それを見て、ニニルは俺の瞳をじっと五秒ほど見つめると、すっと踵を返した。
「――さ、行きましょう、ネイさん」
「は、はい。あの、ご主人様、お気をつけて」
 それはこっちの台詞だ――そう思い苦笑しつつ、ふたりを見送る。
 ふたりは今までよりも少し高めの位置にまで浮き上がると、揃って俺を一瞥し、それから凄まじい速度で木々の向こうへと消えていった。
 赤と橙の輝きが完全に見えなくなってから、俺はぐるりと周囲を見回し、ひとまずはと木の根元に腰を下ろす。
 さて、どうしたものか。
 三日の間、何もせずに過ごすというのは流石に厳しそうだ。
 ここはひとつ、この身体の基本的な能力を確かめるのがいいかもしれない。
 そう思い立って、俺はまずこの姿にお似合いとも言える部分を確かめることにした。
 瞼を閉じ、集中する。意識を傾けるのは――耳だ。
“……”
 耳に手を当てて澄ませるということが出来ないのが何とも焦れったいが仕方がない。
 そうして集中していると、やがてそれまで聞こえて来なかったものが聞こえてくるようになった。
 ぎりぎりぎり、と何かを引っ掻くような聞いたこともない鳴き声。これは鳥なのか、虫なのか。
 さらさら、と木の葉を擦る風の音に、ちょろちょろ、と聞こえる水の音などの環境音。
 もっとと耳を済ませると、何者かの足音まで聞こえてくる。それがかなり遠いということも分かる。
“……ふう”
 瞼を開け、集中を止める。
 聴覚に関しては普段はそれほどでもないが、集中さえすれば思っていた以上の高性能であることが分かった。
 範囲は十分。方向は勿論。何となくではあるが距離さえも分かるのだ。
 流石は獣の王の身体と言うべきか。
 次に試すのは、嗅覚。
 これも瞼を閉じ、そっと集中する。人間の身体よりも突き出た位置にある鼻へと神経を尖らせ、意識を傾ける。
 そうすることで、先程同様に感覚が鋭敏になってくるのが分かる。芳醇な土や草木の匂いに始まって、澄んだ空気の匂いと、何やらよく分からない無機質さを感じる匂い。やがて耳でも捉えた鳥か虫かよく分からないものの匂い。
 流石に聴覚ほどの範囲と正確さはないが、それでも方向と距離が何となく分かるというのはずば抜けていると思っていいのだろう。
 次に試したいのは運動能力。
 しかし、ニニルからここを離れてはいけないと言われている以上、やや難しい。
 なにせこの森の中だ。百メートルも離れたら元の位置に戻ることは至難の業だろう。
 何か分かりやすい目印でもあればいいのだが――
 と、そこまで考えてふと気付く。何のことはない。今の自分にはそれを作る能力があるではないか。
 腰を上げて、傍らの大樹、その根元を見る。雑木林に生えている一本をそのまま拡大したような木だ。そこに寄り添って、俺は自分の身体を適当な場所に擦り付けた。
 それから少しだけ距離を離し、嗅覚に意識を傾ける。
“……よし”
 自分の獣臭がするというのは大変奇妙な感覚だったが、何はともあれ分かりやすい目印を作ることに成功した俺は、ゆっくりと拠点を離れるのだった。
“まずは、走ってみるか”
 人間の身体であった時と同様に二本の足で走るようにすると、この獣の身体も疾走を始める。
 が――
“――うおっ!?”
 それが思いの外に速くて、俺は前方にあった木に正面から衝突する直前で何とか足を止めた。
 自分の身体が出した速度に心臓を鳴らしながら、誰にも見られなかったよな、と周囲を見回す。
“……よし”
 気を取り直し、前方への距離に余裕がある方向を向いてから、再び――今度はゆっくりと走り出す。
 それでも異常な加速度に、俺は予定していた全力疾走までの加速を慌てて止める。感覚的には小走りぐらい。だが、それでも木々に衝突してしまいそうになる限界の速度だ。
“ふっ、はっ、くっ、つっ!”
 まるで八艘飛びのように右へ左へと方向転換を繰り返さざるを得ない。幸い、出ている速度に反して異常なぐらいに小回りが効く。お陰で慣れれば衝突はしなさそうであった。
 どれぐらいの速度が出ているのだろうか、これは。周囲の物体のスケールが異常なのでいまいち掴みづらいが、時速にして六十、いや八十キロメートルは出ているような気がする。びゅうびゅうと身体の周囲で風を切り裂いている音がするぐらいだ。
 生身の人間では到達し得ない速度。しかも、この身体にとっては小走りに相当するためか、どれだけ走っても疲れない。
 その圧倒的な能力に、俺は走ることが快感になりつつあった。
“っ、はははははっ!”
 脳内で声を上げながら、後ろ足で地面を蹴り、土をまき散らしながらばっと跳ぶ。
 予想以上の距離と高さを得られる跳躍に驚きながらも、落ち着いて体勢を整え、向かう先の木を蹴って三角飛びを実現する。
 地面を抉りつつ着地して、俺は満足気に伸びをする。
 向かうところ敵なしとも思える運動能力。これが自分が手に入れることの出来た力なのだと思うと、言葉を失ったのが気にならなくなる程だった。
 これだけの力があれば、ピア達を――
 思いながら、拠点から結構離れてしまったかと嗅覚に集中する。
 運動能力が高すぎるせいで半キロ近くはあっという間に離れてしまう。広く行動するならもう何個か目印を作らないといけないな、と思いつつ、自分の獣臭を探す。
 土と草の匂い。空気の匂い。無機質な匂い。鳥や虫の匂い。獣の匂い。血の匂い――
“――!”
 びくりと自分の鼻が震える。
 鮮血の匂いが比較的近くから漂っている。何処なのか、誰なのかをはっきりさせるために、俺は聴覚もを鋭敏にする。
 聞こえてきたのは、逃げ惑うような二組の足音と、乱暴に追う足音。
 それほど離れていない。それだけを確認して、俺は疾走を始めた。


 疾走を始めて少し。
 聞こえてきたのは、どすんどすんと地響きを立てながら荒ぶる足音。見えてきたのは茶色い巨体と、それに追われて逃げる二つの小型な影。
“――あれか!”
 すぐさま茶色い巨体に後ろから追いつき、その容貌を観察する。
 一見すると、巨大な猪だ。ただ、あまりにも巨大に過ぎる。俺の今の身体の三倍近くはある。
 それが猛烈な勢いで小さめの草木をなぎ倒し、前方やや離れたところにいる何かを追いかけているのだ。
“やってみる、か”
 脳裏で呟いて、跳躍の溜めに入る。
 この巨体の猪を殺すことで、問題が起きないことを祈りつつ、俺は跳んだ。
 容易に猪の背の高さを超え、その背中に着地する。全力で爪を立て、茶の剛毛ごと皮を、肉を切り裂いていく。
 だが――
“くっ――!”
 走りながら、俺を振り落とそうと猪が暴れる。
 身を捩りながら左へ右へ。爪を立てて堪えるも、なまじ切れ味が良すぎるせいで、俺は猪の背中を切り裂きながら、ずるずると振り落とされつつあった。
“っ、こな、くそっ!”
 気合を入れて前足を振り上げ、ざくざくとよじ登りつつ体勢を立て直す。
 猪の背中は既に奴自身のどす黒い血に塗れていたが、全く効いている様子がない。体格の差がありすぎて、奴にとっては引っ掻き傷のようなものなのだろう。むしろ痛みに怒り狂い、更に走る速度を上げている気がした。
“こんな奴に――”
 血の匂いで鼻腔を満たされつつ、俺も怒りを溜める。
 こんな獣一匹に手間取っていて、ピア達が救えるものか。
 猪の背中を睨む。視線でその心臓を射抜かんとばかりに。気付いた時には、右前足が強い緑色の光を発していた。
 今までに発したことのない、強い深緑の光。
“――喰らえ!”
 知らず雄叫びを上げ、俺は猪の背中越しに――腹の辺りに見えた核のような心臓へ、右前足から爪状に伸びた緑の光を叩き付けた。
 瞬間、爆走を続けていた巨体がバランスを崩し、転ぶ。咄嗟に跳び降りて逃れた瞬間、猪はその勢いのままに近くの巨木へ突っ込み、轟音を立てて止まった。
 逃げ出す鳥の音やざわめく木の葉の音が静まると、先程までの喧騒が嘘のように静かになる。
 猪は倒れて突っ込んだまま、動かない。やがて、その巨体が倒れている地面にじわりと赤いものが広がり始めた。
 濃厚な血の匂いが辺りに充満していく。
“終わった、か?”
 荒鳴る鼓動を落ち着かせながら、倒れた猪の周囲を回って観察する。一分。二分。起き上がる気配はまるでない。
 絶命したのだろう。今更になって自分が命を奪ったのだという実感が這いずるように湧き上がってくるが、仕方のないことだ。
 ともかく、と視線を猪の先に向ける。
「――!」
 そこに揃ってへたり込んでいたのは、鹿人間、としか言いようのない姿をしたのと、肌が白めで極端に耳の長い、ふたりの女性だった。
 二人ともその身に纏っている貫頭衣のようなものを血で濡らしながら、怯えた視線で俺を見ている。
 最初の鮮血の匂いは、この二人のものか。
 俺が一歩、二歩と歩み寄ると、ふたりともがそれに合わせてびくりびくりと震えながら身を寄せ合う。
 それほど怯えることはないだろうに、と思いながらも、どうしたものか、と思案する。何分言葉が使えないので、こちらの意図を伝えることが出来ない。
 いや、それ以前に言葉が通じるのか。
 ともかく目と鼻の先まで歩み寄って、耳が長い方の女性の――綺麗と可愛いが高く両立しているだけで少女に見えないこともないが――透き通るような金髪を染めている、頬の切り傷から流れている鮮血をぺろりと舐めた。
 やはり、美味い。それも前に食べた牛の鮮血よりも。
 芳醇な血の味に吐息を吐きつつ――何処から食べてやろうかと思案する。
 細い腕か。割と肉付きの良い太股か。柔らかそうな腹か。そのたわわな乳房か。それともその綺麗な金の髪と顔を持った頭か。
 あるいは――
“……あるいは?”
 ふと、自分が何を考えていたのか、脳裏に思い浮かべる。
 確か、俺は――あれ。いつから、このふたりを食べてやるつもりだったのか。
 先程血を舐めた時か? 姿を見た時か? いや、それとも最初に鮮血の匂いを嗅ぎつけた時からか?
 いや、そもそも俺は何故このふたりを食べようと――
 そんな俺の思考は、不意に鼻を突いてきた刺激臭に中断させられた。
 何事かと思い、臭いの元――やや下に視線を向ける。そこにあったのは長耳の少女の股間で、そこからは、しゃあああぁ、という水音と共に、淡黄色の液体が地面に垂れた貫頭衣を濡らしていた。
 視線を戻す。長耳の少女の綺麗で可愛い顔は、先程までの恐怖に加えて、強い羞恥に染まっていた。
“……すまん”
 謝罪の言葉を思い浮かべ、踵を返してふたりに背を向けて座り込む。
 そうすることでこちらに敵意がないと分かってくれたのか、慌てて身を整える音が背後で響き始めた。
“……”
 程なくで、俺の背中にそっと手が触れてくる。
 それに応じて向き直ると、しっかりと四足と二足で立ち上がったふたりがそこにいた。
 手足や頬に見られた傷は跡形も無い。このふたりも妖精炎魔法のような自己治療術を使えるのだろうか。
「――、―――? ―――」
 少し高めの、鳥が囀るような声と言語で長耳の少女が何かを喋り、頭を下げてくる。勿論、その内容は分からない。
「―――、―――――」
 次いで似たような声で、恐らく同じ言語を使って鹿人間の少女――上半身が人間、下半身が鹿――も頭を下げてくる。
「―――?」
「……――――――?」
 俺が戸惑っている間に、謎の言語によるふたりの会話は続く。何となく問いかけて来ているようなものは感じるのだが、いかんせん返事を返す手段がない。
 さて、どうしたものか――少し残念だが、名乗る名はないとばかりに立ち去ってしまうのも手だろう。俺のそもそもの目的はこのふたりと交流を持つことではないし、加えるなら、ニニルには他の妖精やら精霊に見付からないように、と言われている。もう遅いが。
 という訳で、とくるりと回れ右をして立ち去ろうとする。
 が――
「―、――、――――!」
 その俺の行動は、ざざっと素早く俺の進路上に立ち塞がった鹿少女によって防がれてしまった。
 馬や鹿独特の、跳ねるような足の動きで滑り込んできて、その両腕両手を横に一杯に広げる。お馴染みの「ここから先は一歩たりとも通さない」のポーズだ。顔には緊張の色。
 あれだけ怯えていた割には、今は帰って欲しくはないのだろうか。分からない。これはこちらでは「通さない」のポーズではないとか? いやいや、流石にそうは思えないのだが。
 勿論、この身体のありえないぐらいの脚力で振り切るという手もあるにはあるのだが……
「―――、―――」
「――、―――――、――」
 俺が足を止めて再び座り込むと、何度も頭を下げる鹿少女。長耳の少女も俺の正面に回り込んで来て、あろうことか土の上に座り込み、頭が地面に着かんばかりの勢いで何度も頭を下げてくる。
 言葉が使えないので止めることも出来ず、どうしたものかと見つめていると、ふたりは揃って歩き出し、少し離れると俺を手招きし始めた。
「―――――」
「―――――、―――」
“付いて来い、ってことか”
 足を止めてしまった手前、ここで突然逃げ出すのもなんだかな、と思い、俺はふたりに誘われることにした。


 ふたりに誘われて森の中をしばらく進んだ先にあったのは、小さな池だった。
 いや、池というよりは泉というべきか。山でもないのに不思議なことだが、直径二十メートル弱に広がる透き通った水の中心で、こぽこぽと水が湧き出しているのが見える。ここ一帯の水源地にでもなっているのか、泉の周囲には様々な足跡があった。
「―――、―――」
「――、――」
 長耳の少女は俺の傍から離れると、近くの木の上からぶら下がっていたふたつの背負い袋を取り、片方を鹿少女に手渡す。恐らくは猪に追われたせいでここに放置せざるを得なかった旅荷物だろうか。
 ふたりはその中から揃って大きい白い布を取り出すと、それを手近な木の枝に掛け――そして揃って、その貫頭衣のような衣服を脱ぎ出した。
“!?”
 構造故にか、あっという間に一糸纏わぬ姿になるふたり。
 そして先程のものとは違う小さな布を手に泉の中へと歩み出すと、揃って俺を手招きした。
“……水浴び、か”
 呟きつつ、俺もゆっくりと泉の中へと入る。
 幸いに泉は浅いところと深いところが分かれているようで、頭の位置が低いからとすぐさま水に浸かるようなことはなかった。
 そのままふたりの元まで歩いて行くと、案の定というべきか、ふたりは俺の身体に水を掛け、ばしゃばしゃと洗い出した。
“うわ”
 そう脳裏で声を上げてしまったのは、俺の足元に落ちた水が赤黒く染まっていたからだ。予想以上に返り血に塗れていたらしく、ふたりが水を掛けても掛けても赤黒くなって泉の中に溶けていく。水がそれほど冷たくなかったのは幸いだった。
「――――、―――?」
「――、―――――」
 ふたりは何やら喋りつつも、ひたすらに俺の身体を洗ってくれる。
 ようやく返り血が落ち切ると、今度は手櫛で毛を梳きながらより丁寧に。
「――、―――?」
 鹿少女が俺の顔を覗き込みながら何かを尋ねてきたような気がして、取り敢えず頷いてみる。
「―――!」
 すると彼女は実に嬉しそうに顔を綻ばせ、また頭を下げてくるのであった。
 先程からの甲斐甲斐しさといい、少しだけ何かを勘違いされているような気さえする。まさか一瞬と言えど食べるつもりだったとはとても言えなかった。言えないが。
 そうして心地良く、見目麗しい感謝を受けることしばらく。
 俺を洗うのが終わると、ふたりは自分達もいそいそと洗い始めた。まず貫頭衣を洗って干すと、それからじゃれ合うように水を掛け合ってお互いの金と緑の髪を洗っている。何とも仲睦まじく、種族違いの親友か何かなのだろうかと勝手に想像していた。
“――それにしても”
 ついつい視線でふたりの綺麗な裸身を追い掛けながら、俺は考える。
 それは、ふたりに洗われている間、ふたりの思考が全く流れてこなかったことだ。
“触れた相手の思考を読む能力、じゃないのか?”
 発動の条件がいまいち分からない。
 あれが使えなければ、今こうしているように、未知の言語を使われた時に何を考えているのかまるで理解出来ない。
 行動や表情を読み取るにも限界がある。思考読み取り能力の早期解明も視野に入れなければいけない。
 どうしたものか――
「―――――?」
「――――?」
 ふと気付くと、鹿少女と長耳の少女が揃って俺の目の前で腰を下ろし、俺と視線の高さを合わせていた。
 何を聞きたいのか、何かを言いながら首を傾げているが、やはり俺には何も分からない。
 それよりも――
“……”
 ふたりのたわわな乳房が、俺の視界の半分を埋め尽くしている。
 突いたら指先が跳ねそうなほどに弾力がありそうな、砲弾型の乳房が四つ。その張りのある形と染みひとつない綺麗さはヅィを思い出させる。
 そして、それよりも何よりも、実に――美味しそうだ。
 噛み付いて貪ったならどんな味がするのだろうか。そして、ふたりはどんな悲鳴を上げながら、どのように命乞いをするのだろうか。
 そして――
“……そして?”
 そして――何だというのか。
 まただ。俺は一体、何を考えていた?
「―――?」
 長耳の少女が何かを言い、じっと俺の顔を覗き込んでくる。
 それが詰問されているような気がして、俺は思わず後退った。
 それをどう捉えたのか、長耳の少女は慌てた顔をして、俺に正面から抱き着いてくる。
“――!”
 柔らかい感触。食べたら絶対に美味いと断言できる、良質な雌の肉――
“――う、あああああぁぁぁっ!?”
 咄嗟に頭に浮かんできたはっきりとした思考。
 それに俺は耐え切れず、慌てて長耳の少女を振り払うと、一目散に森の奥へと目掛けて逃げ出した。
“くそっ、くそっ、くそっ!”
 後ろからふたりの慌てた声が聞こえたが、とても振り向くことは出来なかった。
 ただひたすらに、水滴を跳ね飛ばしながら一直線に逃げる。
 気が付いた時には、俺は最初にネイやニニルと別れた大樹の下にいた。
“はあ、はあ、はあ、っ、くそ……!”
 この身体になって初めて感じた疲労感に包まれながら、俺は荒い息を吐き、大樹の根元に座り込む。
 どういうことなのか。食人の趣味なんて俺にはないはずだ。どうして――
“……まさか”
 自分の手を見る。艶のある黒い毛に包まれた獣の前足。
『魂は生き物の根源たるものですから、その一部を差し出すということは、自分の全てを切り裂いて差し出すことに等しいはず、です。記憶障害や人格障害といった精神的な部分を初めとして――』
『――あの人間はあの黒い魂を『獣の王の魂』だと言っていました。対して悠は人間です。元の種族が全く異なる魂を混ぜ合わせるということが本当に可能なのかどうか…… 先程も言いましたが、魂は肉体も司っています。そこで齟齬が起きるのではないかと』
 ニニルの声が脳裏に蘇る。
 魂の一部を入れ替えるということは、こういうことなのか。
 俺は自分の浅慮な選択に、頭を抱えずにはいられなかった。


 大樹の根元に再び腰を下ろしてから、かなりの時間が経った。頭上のふたつの衛星と恒星が二巡りはしたと思う。
 その間、俺は徹底的に他の生物との関わりを絶っていた。神経質に耳を尖らせ、誰かの足音が聞こえれば即座に身を隠していた。
 時折、耳慣れた言語――恐らくはピア達がたまに口にしていたフィフニル族の言葉――が聞こえてくることもあったが、日に日に強くなる、灼熱感にも似た腹の渇きがどうしても彼女達の姿を見ることを俺に忌避させた。
 見てしまえば、俺は辛抱堪らずに襲い掛かる。そういう確信に近い思いがあった。
 そして、ネイやニニルと約束した時間が近付くにつれて、俺は焦っていた。
 ここに留まっているべきか、あるいは否か。
 他のよりは我慢が効くかも知れないが、恐らくはそう大差ない。今の俺がふたりを見れば、やはりあの衝動が沸き起こるに違いない。
 俺に対して恐らくは無防備に近寄ってくるふたりに――
 それだけは、耐えられない。
“……く、そっ”
 今こうして葛藤している時にも、頭の何処かに、このまま待っていればあのふたりが食べれる、と思っている自分がいるような気がする。
 冷静に思考を纏めることが出来ない。
 どうする。どうすればいい。
 ふたりに襲い掛かってしまったら、恐らくは俺はこのまま獣になる。
 さりとて逃げたとしても、俺はピア達を助ける手立てを失い、渇きも癒せず、やはりいつしかは獣に――
「――ご主人様!」
 聞こえてきた声に、びくりと身体が震える。
 まだ遠くはあるが、耳が良くなった今、聞き間違えようもないネイの声。聴覚に耳を傾けると、こちらへと一直線に近寄ってくる独特の飛行音がある。それもひとつだけ。
 よりによってネイがひとりだけで、無防備に俺の元へやってくる。
“――すまん!”
 吐き気がするほどに込み上げてくる焦燥感に押されて、俺はぎりぎりに残った理性で素早く大樹の根元を離れた。
「――ご主人様! ご主人様? ご主人様!?」
 徐々に遠くなるネイの声に、困惑と悲痛が入り交じっていくのを感じる。
 全力で駆け戻りたい。だが、今の俺にはそれが彼女を安心させてやりたいからなのか、それともそうして彼女が胸を撫で下ろしたところを食べてやるつもりだからなのか、全く判別が出来なかった。
 とにかく駆けに駆け、ネイの声が聞こえなくなるまで走り続ける。
 無数の木々の根元を横切り、いくつもの茂みを突っ切り、川を越え――
「――?」
 やがて気が付いた時、こちらを振り向いて呆けた顔をし、下半身を丸出しにしてしゃがみ込んでいる、フィフニル族と思しき茶髪の妖精を目と鼻の先に見た瞬間、俺の意識は途絶えた。

comment

管理者にだけメッセージを送る

No title

更新お疲れ様です
昨日から北海道東北の日本海側を中心に雪が降り始めましたねー
悠も力使っちゃって思いっきり影響受けちゃいましたねこれで人外の仲間入りに・・・?^^;
最後に出てきた妖精さんは物理的な意味で食べられるのか性的な意味で食べられちゃうのかのとこですねー
気になるのは悠が力を使った後は力をコントロールしてもとの自分に戻ることができるのか?ってのが悠の課題になりそうですね
プロフィール

fif

Author:fif

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる