「――っ!?」
がばりと上体を起こす。
何か、決して起きてはならないことが起きてしまったかのような気がして、俺は跳ね起きた。
激しい動悸に苛まされながらも周囲を確認する。
「ここ、は……」
身体を預け慣れたベッド。小学生の頃から人生を共にしてきた机と、愛機とも言うべきパソコン。持て余したからと親父から譲って貰った背の高い本棚。部屋の狭さには少々合わない大型テレビと、それを見るためのソファ。
間違えようもなく、俺の部屋だ。
「……夢、か?」
服は…… いつも寝間着にしているシャツとジャージのひとつだ。不自然なところはない。
シャツを捲って、あの時にノアに貫かれた胸元を確認する。傷跡は、勿論というべきか存在しなかった。
「……そうだ」
少しだけ安堵の息を吐きながら、こんなまどろっこしい方法をする必要はないことに気付く。
部屋から出て、恐らくは朝食の準備などをしているであろうピアを見つければ、それで万事解決だ。
早速ベッドから足を下ろし、ひとつ背を伸ばして――そこで、扉が遠慮がちにノックされた。
「ご主人様、お目覚めになられましたか?」
「ん、ネイか?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、予想とは違ってネイの声。
しかしそれでも最悪が否定されたことは間違いない。
「あ…… 入っても宜しいでしょうか?」
「ああ」
一拍の間を置いて、ネイが入ってくる。
しかしネイのその姿を見て、俺はどうしようもない違和感を覚えてしまった。
「……あ、あの、どうかなされましたか?」
「……ネイ。今日は君が料理担当なのか?」
ネイの格好は、いつもの護服の上にエプロンを掛けたものだったからだ。
エプロンは皆が共用しているシンプルなもので、別にそれ自体におかしいことはない。だが、俺は今までにネイがそれを着けているところは見たことがなかった。
何故なら、聞いた限りではネイは破滅的に家事が不得意で、ネイには簡単な掃除以外を任せることはないとピアが言っていたから。
「え、あ、は、はい。今朝早くから皆、用事で出かけてしまいまして……」
「何処へ? いつ戻ってくるんだ?」
「そ、それは……」
何故か言い淀むネイの態度に、俺は苛立ちを隠せなかった。
気が付けば、じりじりと下がって逃げるネイを壁際、手が届く距離まで追い詰めていた。
「……ご、ご主人様、怖いです、よ? 朝食の準備も出来ていますし、その、まずは」
「……誤魔化すんじゃない。答えろ。皆は何処に行って、いつ帰ってくるんだ?」
「ご、ご主人様……」
ネイが答える様子はない。
徐々に加速する動悸に急かされるように、俺の苛立ちは募る。真実を一刻も早く知りたいのに、答えないネイにその苛立ちが一直線に向かっていくのが自分でも分かる。
もう俺の頭にはひとつの可能性しかなくて、それに間違いないと自分でも分かっているのに、それを口には出したくなかった。
せめて他人の――ネイの口から告げて貰えれば。
けれど、涙を浮かべているネイに気付いて、俺は寸前でその苛立ちを爆発させることなく、しかし苛立ち紛れに吐き捨てた。
「戻ったんだな、皆」
「ち、違います……! 皆、用事で……!」
「嘘を吐くな!」
思わず放ってしまった怒声に、ネイがびくりと震える。
俺はそんな彼女に踵を返し、服を着替える。そしてとにかく何かをしなければと逸る心と共に部屋を出ようとした矢先に、がしりと足を掴まれた。
「ご、ご主人様…… 私じゃ、駄目なんでしょうか?」
「何?」
「私じゃ、皆の代わりにはならないんでしょうか?」
涙を浮かべ、必死に縋り付いてくるネイ。
その背中の溶岩のような翅は爛々と輝き、妖精炎魔法の発動を俺に教えている。
「何でも、何でもしますから。何だってしていいですから、だからご主人様、お願いですから、私の傍に居て下さい……!」
そこで、はたと気付く。
どうしてネイだけがここに残っているのか。
「――なら、話してくれ。あの晩に、一体何があったのか」
「そ、それは……」
やはり躊躇うネイ。何を恐れているのだろうか。
しかしここで足を止めている訳にはいかない。何としても話して貰わなければならないのだ。
その思いを込めて、ネイの瞳を見つめる。ネイは慌てて視線を逸らし――そこに、思いがけない援護の声があった。
「ネイさん、隠し通すのは無理でしょう」
「!?」
咄嗟に振り向く。
そこでは、橙の妖精――ニニルが、やれやれと言わんばかりに窓から入ってきたところだった。
いつもの黒い外套に白いワンピース。変わりのない彼女。
「何ですか、見るなり。まさかあいつらと一緒に帰ったとでも思っていたんですか?」
「あ、ああ……」
驚きに思わず頷きを返すと、ニニルは非常に嫌そうな顔を俺に返してくる。
「誰があんなのに連れられて戻るものですか。妖精だけの国を―― お題目は結構ですが、やっていることは帝国と同じです」
そこでちらと俺を見て、はあ、と嫌そうに息を吐き、
「あと、貴方のために残っただとかそういうことでもありませんので悪しからず」
「あ、ああ。いや、分かってる」
言われて、思わず笑みが溢れそうになっていたことに気づき、慌てて止める。
本当のところがどうであれ、ここでニニルの機嫌を損ねても良いことはない。それよりも――
「ニニル、ピア達は――」
「ええ。悠はあの黒いのの攻撃で瀕死の重体になって気を失っていたので覚えていないと思いますが、あいつらは悠の治療を交換条件に族長達を連れていきました」
「に、ニニルさん……」
ネイが、どうして言ってしまうのか、と言わんばかりの悲しげな声でニニルを呼ぶ。
しかしそれに構わず、ただネイを一瞥してニニルは続ける。
「あれから三日が経過しています。あいつらは既に門を抜け、幻影界に戻っているでしょう。 ――つまり、あなたに追い掛ける手段はほぼありません」
「そう、なのか」
「ええ。 ――『どれだけ月が巡ろうとも、必ずあなたの元へ戻ります。どうかお待ち下さい』 族長からのお言葉です。確かに伝えましたよ」
その言葉を口にしているピアが鮮明に脳裏に思い浮かぶ。
毅然とした顔で、けれど涙を浮かべて。
「まあ、向こうとこちらの時間流差にも寄りますが、最短で数年、長くても数百年ぐらいでしょう。気長に待つのも――」
「いや、駄目だ」
「――は?」
俺の言葉に、何を言ってるんだろうかこの人間、という表情をありありと浮かべるニニル。
「迎えに行く。いや、連れ戻す。一月だって待てるものか」
「な、あなた、私の話を――」
「聞いてる。でも、まるで手がないわけじゃないはずだ。君達に出来て俺に出来ないものか」
唖然とするニニル。
だが、俺も何も考えなしに大それたことを言った訳ではない。この世界の人間に世界を移動することが理論的に許されていないのでなければ、必ず方法はあるはずだった。
目を白黒させた後、ニニルは迷うように言う。
「……確かに、悠が向こう側に行く手段が、まるでないわけではないんですけど」
「なら、教えてくれ」
「私の帰還に、便乗することです」
言いながら、ニニルは肩から下げていた鞄の中から、俺の握り拳ほどの――植物の種か。それに近いものを取り出した。
「これは帰還用の転送門を構築するためのものです。帰還者用の信号を発信し、それが向こうの『界の鏡』で受諾されれば、幻影界に繋がる門が開きます。これを通れば悠でも向こうに行けるはずです。しかし――」
「問題があるのか?」
「当たり前です。貴方、自分を何だと思っているんですか。人間は妖精郷には基本的に立ち入り禁止。問答無用で殺されますよ」
……そうか。かつて聞いた話からすれば、その界の鏡というものはウルズワルドの王城、言わば敵本拠のど真ん中にある。出てすぐにピア達と会えれば目はあるが、向こうの状況が分からないのではあまりにも危険な賭けだ。
「それに、信号を向こうが受諾するかどうかも分かりません。私からの信号ということは向こうに分かりますから、警戒されると受諾されない恐れもあります」
「そうか…… でも――」
「止めてください」
それしかないのなら、と続けようとした声は、あまりにも冷え切ったネイの一声で途切れた。
「ニニルさん。貴方、ご主人様を殺すつもりですか?」
「な、や、そ、そんなことは――」
「なら、ご主人様を惑わせるようなことは止めて頂けますか。いくらニニルさんでも、そういうことをするのなら――」
今までの気弱さは姿を消し、ネイはどこか虚ろな様子でそう続ける。表情はなく、どう見たっておかしいと言えた。
「ネイ、君だって――」
「ご主人様も。思い上がったことを仰るのは止めてください」
それでもネイを説得したようとした瞬間、人が束になってのしかかってくるような凄まじい重圧を感じて、俺はたまらず膝を付いた。見れば、ネイの背中の翅が煌々とした溶岩の輝きを放っている。
「ほら、この程度にも抵抗できない。これでは死にに行くようなものです。絶対に認められません」
「く……!」
ネイの妖精炎魔法に対抗しようと、俺も意識を集中させる。右手がミゥのものと同じ緑色の輝きを滲ませ――しかし、何も変わらない。俺の実力があまりにも低過ぎるのだということは勿論分かっているのだが。
「だから変なことは、お願いですから仰らないでください。ね?」
膝を付いた俺に歩み寄って、そっと口付けを交わせるほどの距離まで顔を近付けてネイは言う。
「私だって何でも致しますから。どう扱って頂いても構いませんから。だから、もう離れないでください」
不意に身体が軽くなる。ネイは俺の口許にその小さな唇でそっと口付けをすると、すっと踵を返した。
「じゃあ私、他の家事をしてきますね。朝ご飯は出来てますから、お食べになってください。ニニルさんも良かったら手伝って下さいね」
言いながら振り向いて、ネイは微笑む。その笑顔はいつものネイのものだった。
そのままネイは部屋を出て行った。それを追い掛けるようにニニルも扉に手を掛け、先程のネイのように俺を振り返る。
「……悠。貴方の気持ちは分からないでもありませんが、あまりにも無謀です。大人しく待つのも悪くないと思いますよ。族長は約束を破りはしない方です。不本意ですが、それまでは私も付き合ってあげますから」
「……」
「では、私はネイさんのお手伝いをしてきます。確かネイさん、家事は苦手だったはずですから」
そう言って、ニニルも部屋を出て行く。
残された俺は、ひとつ息を吐いてから着いていた膝を上げた。
廊下に出てみたものの、彼女達の部屋に無断で入る気にはなれず、俺は空中庭園へと出た。
「――うおっ」
扉を潜った途端、思わず身が震えるほどの寒風が吹き付けてきて、思わず驚きの声を上げてしまう。
慌てて妖精炎を使って周囲の気温をコントロールする。だが俺では力量が足りずに、どうしても肌を撫でるような寒気が残ってしまう。
そろそろ夏も終わりだ。本当はこんなにも外は寒かったのだと気付く。
「……本当に、いなくなってしまったんだな」
俺は本当に何から何まで彼女達に護られていたんだなと呟いて、椅子代わりの石に腰掛け、彼女達との思い出に想いを馳せる。
初めて出会った日のこと。売り込むように押し掛けてきて、その日の内に肉体関係を持つにまで至ったピアのこと。
買い物に出かけた日のこと。嘘を吐いていたと告白し、そして自分を罰して欲しいと訴えてきたミゥのこと。
ノアの来歴を聞いた日のこと。人形のようだと思っていたけれど、独特な考え方をしているだけなのだと知ったノアのこと。
シゥが禁断症状に陥った日のこと。強く、それ故に脆い生を歩んできたのだと察することのできたシゥのこと。
ヅィが学校まで付いてきた日のこと。彼女達の本心を、押し掛けてきた本当の理由を聞き、そして好きだと告白してきたヅィのこと。
俺が学校を休んだ日のこと。そして人間と変わらないように自分のことを話し、歌を歌ってくれたネイのこと。
五人がいなくなってしまった今、彼女は以前のように歌ってくれるのだろうか。歌えるのだろうか。
そして旅行の時のこと。
自分の思いを打ち明け、吐露してくれたピアとシゥ。
すっかり甘えてくるようになったミゥ。
俺を護り、色々なことを教えてくれたヅィ。
より詳しいことを知り、普通の女の子とそう変わらないのだと知ったネイ。
恋や愛について悩み、考えていたノア。
そして俺を人間だと罵りつつ、やがて幾らかは俺という個人を認めてくれたニニル。
「……くそ」
悪態を吐く。
やはり、認められない。
一月だって待てるものか。もう彼女達は俺の家族だ。俺は彼女達の家族だ。
傲慢だと言われるかもしれないが、これは譲れない。
どうにかしてネイを説得し、ニニルと一緒に相談するべきだと俺は腰を上げ――ごとり、という不意に響いた音に視線を向けた。
「お、っと」
音の原因は携帯電話。ポケットに入れっぱなしにしておいたのが落ちてしまったようだ。
俺はそれを拾い上げて――ふと、誰かの言葉を思い出した。
『――そう。困った事があったら電話してみて。相談に乗ってあげる事ぐらいは出来るよ。ただし、一回きりだけど』
「……!」
数週間前の、まだ夏だったあの日。
山奥の不思議な廃村とそこの神社で出会った少女の言葉。
確証はない。だけれど、俺はアドレス帳を探り――その番号に電話を掛けていた。
「――あなたは選ぶこともできる。辛く苦しく危険のある現実か、居心地のいい夢の続きか」
呼び出し音はなく。ボタンを押してすぐ、あの少女の声が応えた。
「あえて世界の深淵を覗き覗かれ、それを越えていくというのならば――明日の夜、神社で会いましょう」
そして一方的に切れた。ツーツーツーと鳴る携帯の通話を切り、俺は庭園から部屋内に戻る。
やることは、もはやひとつだ。
居間に入ると、幸運なことにネイもニニルもそこにいた。
「――あ、ご主人様。宜しかったらこちらをお召し上がりになってください」
俺の姿を認めるなり、ネイは掃除の手を止めて微笑みながらテーブルの上に乗った食事を勧めてくる。俺の部屋に来た時に言っていた朝食がこれなのだろう。
「ああ、ありがとう」
何やら心配そうな視線を寄越してくるニニルをちらと見返しつつも、取り敢えずは腹拵えを済ませようと席に着く。
朝食は一見すると普通の洋風だ。パンにサラダにと簡単な料理が並んでいる。ネイも自分の料理下手は分かっているようなので、恐らくは当たり障りの無いものを選んだのだろう。それでもよくよく見ればサラダの千切り方などから彼女の壊滅的な腕前が伺える。詳しくは彼女の名誉のために伏せるが、これでは昼食以降が怖い。
「ご馳走様」
「はい。お昼ご飯も出来たらお呼びしますので、待っていてくださいね」
「ああ。それとネイ、明日だが」
「はい、何でしょうか?」
そう切り出すと、ネイは掃除の手を止めてこちらの眼前までやってくる。
表情は微笑んではいる。だが、どこか空虚なものだ。
それがなんとも痛ましくて、我慢できなくて、俺は告げた。
「明日は――この間の旅行。あの時に行った廃村に行く」
「――駄目です」
返答は、やや間を置いての否定だった。
彼女も恐らくは何かを察したのだろう。今の俺が何の意味もなくあそこに行こうなどと言い出すはずがないと。
胸に手を当てて、ネイは微笑みから一転、悲しそうな表情になって言う。
「ご主人様、私の何がご不満なのですか?」
「そうだな。強いて言うなら――今のネイの全部だ」
「え――」
何を言われたのか理解出来ない――いや、したくないと言うかのように呆けた表情になるネイ。
「悠!? あなた、幾ら何でも――!」
「いいか、ネイ」
ニニルの怒りを片手を上げて制し、俺は虚ろな様子のまま、目尻に涙を溜め始めたネイに問いかける。
「君は今、歌えるか? 笑えるか? 俺と一緒にいられるか? ――以前のように。六人で揃っていた時のように。答えてみろ。嘘は許さないぞ」
「それ、は……」
「言っておくが、俺には無理だ。今は――今の君の歌を聞くことは出来そうにないし、一緒に笑えるはずもないし、このままでいたいとも思えない。ネイが嫌いなんじゃない。皆と一緒にいられないネイを見ているのが辛いんだ」
涙に濡れる紅玉の瞳にしっかりと視線を合わせ、そう語りかける。
一拍の間を置いて、彼女の瞳からは大量の涙がみるみる溢れ、表情がくしゃりと泣き顔に歪む。
「――分かってます! 分かってる! でもどうしようもないじゃない! ご主人様が死んじゃうぐらいなら、私は、私は……!」
涙をぽろぽろと零しながら、激しい感情を吐露するネイ。
俺も心が痛まないわけではない。それでも言わなければならない。
「じゃあネイ。ひとつ賭けをしよう」
「……っ?」
「俺と君が戦って、勝った方は負けた方を従える。俺が勝ったら、何としてでも向こうに行く。君が勝ったら、俺は君が望むだけ永遠に共にいよう。それでどうだ」
「――正気とは思えません」
「だろうな」
憤慨しているニニルに軽口で応えながら、靴の感触を確かめる。
少し離れたところには宙に浮くネイ。その手には巨大な戦槌である『血歌の盟約』を抱えている。
「本当に分かってるんですか? ネイさんは僅かに力を出すまでもなく、悠を灰に出来るんですよ?」
「勿論だ」
実力差は分かり切っている。
俺がネイに実力で勝つ可能性は特筆するまでもなく零だ。万に一つもありえない。
しかしそれは重要ではない。ネイに実力で勝つこと自体はどうでもいいのだ。
「――じゃあ、もう一度確認するぞ。『参りました』と宣言するか、死んだら負けだ。勝ちはその逆。いいな?」
「はい」
ひとつ頷いて、ネイは背中の翅を強く赤く輝かせる。燃え立つ陽炎がはっきりと見えるぐらいだ。
相対距離は二十歩ぐらいか。それだけ離れているというのに、肌が焼けるような熱を感じる。
「ご主人様、本当に本気なんですね?」
「ああ」
「……どうしても、止めてくれないんですね?」
「くどいな」
そう言い捨てると、ネイも流石に怒りを感じたのか、発している熱が強くなったのを感じる。彼女の真下、そこにある砂礫が赤熱し始めたのがその証だ。
「――じゃあ、私は予め宣言します。ご主人様は私のものです。以後、あらゆることにおいて私が許可したこと以外は慎んで頂きます」
「もう勝利宣言か。気が早くないか? シゥが聞いたら笑われるぞ」
「……ご主人様に、この言葉を使いたくはありませんでしたが」
言って、ネイは『血歌の盟約』を構え、陽炎の吐息を吐き、
「世界樹守護種とただの人間の、格の違い。それを思い知らせて差し上げます」
――瞬間、ごう、と灼熱の風が襲いかかって来た。
「う……!」
口を開きかけ、慌てて閉じる。瞼の上に手で覆いを作り、どうにか目を開く。
まるでストーブの真正面至近距離に立っているような、皮膚がじりじりと焼ける感触。それが絶え間なく襲ってきている。
見れば、彼女の真後ろにある観葉植物が炎も立てずにぶすぶすと炭化していっているのが見えた。
「く……!」
何とかこちらも温度調節の妖精炎魔法を使うものの、微塵も効果があるようには思えない。
抵抗を試みようにも、今更になってこの熱風を幻影だと思い込むことは難しい。どう見ても現実のものだ、これは。
「普通、こんな無意味なことはしないのですが。人間の貧弱な力ではこれを超えることすらできない」
これだけの現象を起こしておいて、ネイは微動だにせず冷ややかな目で俺を見つめながらそこにいる。
そう。これは別に凄いことではないのだ。ただ、人間の生身が脆すぎるだけのこと。
「……さあ、降参してください。そこから一歩も進めないご主人様に、私を傷付ける術はありません」
そしてネイは、やはり焦るようにそう言った。
俺はそれを無視し、全身が焼け付く痛みを全力で堪え、一歩を踏み出す。
「――!?」
そのまま二歩、三歩。熱源であるネイとの距離が縮まったことにより熱量は更に増し、全身が悲鳴を上げる。覆いを作ったとてとても目を開けていられず、妖精炎魔法で薄い低温の膜を意識して、それで目を保護し視界だけは確保する。
更に四歩、五歩。全身の産毛が燃えるような感覚の寸前で、急激に熱量が下がった。
戦いの開始時よりも少しだけ近い距離に、ネイの激怒した顔がある。
「このっ……!」
次の瞬間には熱が完全に消え失せ、同時にネイが突撃してくる。『血歌の盟約』を使った下段払い。辛うじて動きは見えるが、到底回避できる速度ではない。
空気が唸り、重量のある打撃部に纏めて両足を払われる。衝撃に左側の脛が鈍い悲鳴を上げる。
無様に転んだ俺は、骨折の痛みに悲鳴を上げる間もなく――
「――っ!」
「ちょっ、ネイさん――!?」
ぐしゃり、と右太股が爆裂するような感触に、声を奪われた。
「っ、が……!」
身体に火が点いたような猛烈な熱に霞む視界の端で、ネイが払いの後に振り下ろした『血歌の盟約』が、俺の右太股を完全に粉砕していた。
「来ないで……!」
ネイが叫ぶ。恐らくニニルが慌てて向かってきたからだろう。顔は怒気を孕んでいるのにその声は涙混じりで、同時に有無を言わせない迫力があった。
そして彼女は俺を見据えたまま、喉から声を絞り出すように叫ぶ。
「降参してください! 早く!」
ネイが言わんとしていることは分かる。
一刻も早くこの戦闘を止めて手当てを受けなければ、俺は直に出血多量で死ぬだろう。ショック死しなかったのが不思議なぐらいだ。
しかし、それでも俺は言わなければならない。
「嫌、だ」
「っ――! 降参しなさい! 降参して! お願い……!」
「嫌だって、言ってるだろう……」
ネイももう気付いているだろう。俺の真意がどこにあるのか。
『参りました』と宣言するか、死んだら負け。勝ちはその逆。この条件を呑んだ時点で、俺を第一に考えてくれている限りネイは負ける。
俺に必要なのは何が起きようとも決して降参しないその覚悟だけ。
「嫌、だからな…… 絶対に」
とにかく俺はそれだけを口にする。ネイがまだ何かを叫んでいるが、夥しい出血のせいで朦朧としてきた意識では何を言っているのか分からなくなってきた。
ピアやシゥがいたら、ネイが間違えたらどうするのかと怒られたかもしれない。
でも、俺は――
「――っ! ――!」
ネイが何かを叫び、下半身が激痛を伴うものではない暖かい熱に包まれて、唐突に痛みが消え失せる。
朦朧とした意識だけは変わらないが、ネイが何かをしてくれたのだろうということは容易に想像がついた。
「う、く……」
こんな勝負とも言えない勝負が有効か無効か。
俺はそれを気にしつつ、無様に転がったままネイの処置を受け続けた。
そして、あれから六時間と少し。
あの勝負の後、一時間ほどで何とか朦朧とした意識から回復した俺は有無を言わさずに自室のベッドで休むことを強制され、勝負の結末を聞けないまま妖精炎魔法で泥のように眠らされた。
気怠い眠りからきっちり六時間で目覚めた途端、待ち構えていたネイとニニルが大量の食事を部屋に持って来て、極めて腹を空かせていた俺はそれを貪るように食べている。
ちなみに左脛と右太股は何事もなかったかのように健全だった。やはりあれは治療してくれていたのだろう。
「――で、だ」
皿をまたひとつ綺麗にしながら、俺はどうしても聞きたかったことをふたりに尋ねる。
「勝負は俺の勝ち、でいいのか?」
一拍の間があって、ネイが、はあ、と彼女にしては珍しく、これみよがしな溜息を吐いて応えてくれた。
「次にあんなことしたら、もう知りませんからね」
「俺の勝ちでいいのか?」
「……はい。私にはご主人様にあれ以上酷いことはできません」
「馬鹿だ馬鹿だとは思っていましたが。悠、あなたは本当に馬鹿ですね。ネイさんが愛想を尽かせていたらどうするつもりだったのですか」
「ネイを信じてたからな」
格好付けてそんな台詞を吐いてみるものの、流石に反応は冷ややかだ。ふたりとも深い溜息を吐き、無言で次の料理が載った皿を出してくる。
「ありがとうな。俺の我侭に付き合ってくれて」
礼を言って皿を受け取り、とにかく料理を腹の中に収める。失った血は流石に回復し切れていないのだろう。まだ本調子には程遠いが、食欲だけは尽きない。
お陰でネイのあまり出来がいいとは言えない料理でも美味しく食べられた。
「……ご主人様のお気持ちは分かりました。私もこの身の全てを以てご主人様をお護りするつもりです、が」
「悠は考えていることが甘すぎるんですよ。ヅィ様から教えて頂いたでしょう? 妖精炎魔法は個人戦闘向けで、他人を護ることには向いていないと」
「はい。ご主人様が直接狙われては、流石に防ぐにも限界があるんです。それを何とかしないことには、向こうには……」
そう言えばそんなことも言っていたなと今更ながらに思い出す。
妖精炎魔法はイメージの魔法。正確で緻密な想像力やそれに付随する感情が威力やバリエーションに直結する魔法だ。それ故に、他者に対して友好的な効能を発揮する魔法というのは扱いづらく、また需要が低いので発達もしていないという話を確かに聞いた覚えがある。治癒系はその典型らしい。全員が自分自身に最適な治癒能力を持っているのだから、他者に使う必要がないのは当然の話だ。
「まあ、まだ向こうに行くとか行けるとか決まった話じゃない。ちょっといい方法に心当たりがあったから、そこを当たってみようって話だ。 ――ご馳走様」
「はい、お粗末様でした。もうしばらくお休みになってくださいね」
ようやく食欲を落ち着かせて腰を上げようとしたところ、ネイにそう釘を刺されてしまう。
俺は不精不精ベッドに横になり、食器を片付けていくネイとニニルに視線を向ける。勝った方は負けた方を従えるはずなのに、今はまるで逆だ。
それが何となく悔しくて、俺は咄嗟に頭に浮かんだ煽り文句を放ってみた。
「――そう言えば、ネイ?」
「はい、何でしょうか?」
丁度片付けを終えて俺の部屋に戻ってきたネイに、今思い出したとばかりに声を掛ける。
内心は笑いを堪えるのに必死だったが。
「あれがネイの地なのか?」
「地、ですか?」
「言葉使い」
俺の言葉に、はて? と首を傾げたネイにそう一言だけ告げると、ネイの顔が見る見るうちに真っ赤になった。
あの時は既に意識が朦朧とし始めていたが、しっかり覚えている。勝負の最後、ネイが普段のように丁寧な言葉遣いではなく、普通の女の子のような言葉遣いであったことを。
「あ、あれは――」
「別に無理はしなくていいんだぞ?」
「い、いえ。無理はしていません。ただつい出てしまったというか、その。自分でも久しぶりなのですが」
「ふむ。ネイは目上とか目下とか親友とか場面でしっかり使い分ける方か」
「は、はい。 ――あ」
頷いて、しかしネイは俺の顔――見るからに悲しそうな顔だろう――を見て、顔を青ざめる。
「そうか、ネイにとって俺はまだ遠いか……」
「ち、違います! 決してそういうことではなく、その、ご主人様はご主人様だからというか……!」
俺はごろりと転がって、ネイから顔を背ける。流石に笑わずにはいられなくなったからだ。
しかしそれを勘違いしたのか、ネイは俺の側まで駆け寄ってきて、必死に弁解してくる。
そんな彼女の反応が面白くて、俺は更に意地悪を続ける。
「じゃあ普通に喋ってみてくれよ」
「ふ、普通に、ですか」
すぅ、はぁ、と深呼吸をする音。
「……な、何を言えばいいの?」
「何でもいいよ」
「……ご、ご主人様、私は貴方の側にずっといるから、お願いだから無茶をしないで」
「八十点だな」
「な、何か、足りないところが?」
「俺の呼び方」
そう言ってやると、息を飲む音が聞こえた。そこまで緊張しなくてもいいと思うのだが。
「ゆ、ゆ…… 悠、様?」
「九十点」
「……ゆ、ゆ、ゆっ、悠?」
何度も吃りつつも、ネイは辛うじて俺を呼び捨てにした。
そこで俺は振り向いて、良く出来ましたと頭を撫でてやる。勿論、顔は笑ったまま。
「はい、百点。 ……そんなに真っ赤にならなくても」
しばし硬直していたネイだったが、俺にそう言われてようやくからかわれていたことに気付いたようだ。
「――ご、ご主人様!」
「悪い悪い」
顔を真っ赤にしつつも怒ってくるネイがこの上なく愛らしかった。
不意に彼女を抱き締めて頬擦りしたい衝動に駆られ、食欲を十分に充たしたせいか、それはすぐさまに情動に変わる。
……そう言えば、こういう時のお約束というものがあった。
「ネイ、食事はもう終わりか?」
「あ、はい。 ……まだ食べ足りませんでしたか?」
怒っていた顔はどこへやら。すぐさま心配の表情に変わった彼女の心遣いを有難く思うと同時、それすらも愛欲に変わるのが分かる。
どうしようもなく、彼女が欲しい。
「ああ。次はネイ、君を食べたい」
「はい。 ――え?」
ネイがまた硬直し、見る見るうちに顔を赤くする。
食べたい、の意味は分かっているのだろう。その間に俺は彼女を抱き上げ、自分の懐に抱き寄せた。
「え、あ、その、その、ご主人様、まだ無理は」
「嫌か?」
ネイの紅玉の瞳を覗き込みながらそう尋ねる。
我ながら卑怯な手だと思いつつも、これが手っ取り早いことを知っているだけにどうしようもない。
「い、いえ、決してそんなことは」
「じゃあネイを食べさせてくれ。いいだろ? 勝者は敗者を従える、んだからさ」
「あ、う……」
彼女の服の小さなボタンを外し、丁寧に剥いでいく。
抵抗はない。ネイの紅玉の瞳は自分の服を脱がしていく俺の手をじっと見つめている。
「あ、あの、ご主人様……」
「ん?」
「や、優しく、お願いします」
長い耳の先まで赤くしてのそんな懇願を、俺は少し悩んでから首を振った。 ――横に。
「え、え?」
戸惑うネイの声に笑いながら、俺はゆっくりと彼女をベッドに組み伏せていく。
そうして逃げられない体勢にしてから、俺はその長い耳の先端を舐め咥えるようにして囁いた。
「――俺はやられたらやり返す性質だから。今日は激しめに行くぞ」
「え、ひ、やっ……!?」
そうして俺とネイは、溶けるように愛し合った。
ネイの状態を見れば、俺が一方的に彼女を弄んだ、と言えなくもなかったが。
――そして、翌日。
「本当にいいのですか?」
「ああ」
答えながら、俺は部屋に鍵を掛ける。
「しかし、夏美さんが……」
「大丈夫だ。まだ向こうに行けると決まった訳じゃない」
エレベータに乗り、一階まで降りる。
「でも……」
「くどい」
強めに言い切ると、それでネイもニニルも視線を下げて沈黙した。
少し申し訳なさを感じながらも、これでいいんだと自分を納得させつつ、いつも借りている夏美さんの車に乗り込む。
話題にしているのは、夏美さんや他の人への挨拶のこと。
俺は、簡単に置手紙一つだけを居間のテーブルの上に残して、こうして約束の場所に向かおうとしている。
それにふたりが異を唱えたのだ。もう戻ってこれない可能性が非常に高いのだから、ちゃんと挨拶をしておくべきだと。
「勘違いさせたら大変だからな」
ふたりが後ろの席に収まったのを確認してエンジンを掛け、車を出す。
――本当はそんな理由ではない。自分の本心など、自分が一番よく分かっている。
俺はこの時、まだ怖かったのだ。自分以外の全てに別れを告げなければならないことが。
ピア達を取り戻したいのは確かだ。だが、その独占欲と狂気が入り交じったような思いがあっても、二度と戻ってこれないかもしれないという恐怖は抑え難かった。
だから俺は予防線を張るように、直接の挨拶を避けた。
説明はし難いが、確信はあった。あの巫女の少女と、その口振り。そしてあの村と神社。
多分、あの神代神社には――
予想が当たっていることを願いながら、俺は記憶に従って山へ山へと車を進める。
見覚えのある登山道に着いた時には、日が山の稜線の向こうへ沈もうとしていた。
無言で車を降り、途端、吹き付けてくる寒風に身を震わせる。咄嗟に妖精炎を使って制御を試みるものの、やはり完全にはいかない。
しかしそれも束の間。強固すぎるほどの妖精炎が俺の身体を瞬く間に覆い、熱くも寒くもない常温に固定される。
「ご主人様、加減は如何ですか?」
「すまん。じゃあ、行こうか」
心配そうな顔で俺を気遣ってくれるネイに感謝して、夕暮れの山道を歩き出す。
ネイと戦って大量の攻撃的な妖精炎に晒されたせいか、俺の身体が以前よりも確かに妖精炎を知覚出来るようになっているのを感じる。
分かり切っていることだが、俺とネイの妖精炎の強さは比較にはならない。俺と二ニルでさえマッチとバーナーの炎ぐらいの差はあるように感じるというのに、ネイと比べれば今度はニニルがマッチの炎で、ネイは火炎放射器に等しいぐらいの差を感じる。
だが、そんなネイでも――
「ネイ。君はエイルと戦って勝てるか?」
「エイルと、ですか。 ……ご主人様から頂いた力を使って、五分、というところでしょうか。確実に、とはとても言えません」
少しだけ思案して、それから答えてくる。
恐らく、向こうに行った際の最難関はエイルになる。俺がピア達に会うことを必ず妨害してくるはずだ。俺の顔も覚えているだろう。他の妖精達は何とか戦闘を避けられたとしても、彼女に遭遇すれば俺は間違いなく排除される。ネイの全力で五分なら、それは俺を殺すのに十秒と掛からないということだ。
逆に、俺がピア達の目の前まで行ければ形勢は逆転する可能性が高い。気掛かりなのは、あの時操られたかのように俺を刺したノアだが……
「ふたりとも、ノアのことは何か知ってるか?」
「……ノアは、ご主人様を攻撃しました。それは覚えていますか?」
「ああ。エイルに操られたかのようだった」
あの瞬間、俺の聞き間違いでなければ『黒妖精緊急制御コード』とエイルは言った。
それの意味するところは察しが付く。
「多分、ノアに掛けられた制御系の命令権が解除し切れてなかったんだろう。それを使われた」
「制御系の、命令権?」
「はい。私は詳しくは分からないのですが、ノアは帝国の工廠で作られた子だったようですから」
呟いたのはニニル。肯定するように頷いたのはネイ。
「ノアは…… 私達が駆け付けた時には操られてこそいませんでしたが、とても憔悴した様子で。自傷して死のうとしたため、ピアとシゥが無理やり拘束しました」
「……自傷?」
「……はい。自身の妖精石を抉り出して、ご主人様の治療に使おうとしたようです。ノアの短剣による攻撃は特殊な性質を持つため、それを中和するには強い妖精炎の力が必要で…… 幸い、私達全員で一日ほど治療を行って、傷は塞がったのですが」
思わず胸元に触れる。
憔悴して、自傷しようとしたらしいノア。あんな性格の彼女だから、自分の身体が勝手に動いて俺を刺したというのは許しがたかったのだろう。
俺は助かったのだから、変に気に病んでいなければいいのだが……
「あの、ご主人様。どうかノアを許してあげてください」
「ネイさん、それは幾ら何でも無理でしょう」
「ですけど……」
「前々から気にはなっていたんですが。やはりあんなのを傍に置いておく事自体間違いだったということです」
俺の考えを他所に、後ろで言葉を交わすふたり。
声色から察するにネイにも少しは思うところがあるのだろう。擁護の声は弱い。
ノアが悪いわけではないのだが、生まれから来る不透明性が問題だ。それを何とかしなければならない。
「――明かりを頼む。そろそろ本格的に暗くなってきた」
「あ、は、はい」
まるで話を聞いていなかったように、そう口を挟む。話は中断され、ネイが慌てて俺の目の前に鬼火のような明かりを灯す。
俺はノアの不透明性については気にはしない。発動する者がいなければいいだけの話だ。だが、他の六人のためにも不和の種を抱え込むことはしたくない。
どうすれば解決できるのか。それを考えながらひたすらに足を進める。
問題は山積みだ。そして解決策も見当たらない。
行き当たりばったり。自転車操業。そんな言葉が脳裏を過る。かつてはそれほど気にしては来なかったが、今だけは確かな手掛かりが欲しい気分だった。
やがて山道を抜け、俺達はあの廃村へ到着した。
既に日は落ち、夜の闇が辺りを満たしている。耳が痛くなるほどの静けさもあり、正直に言ってかなり不気味だった。
足早に通り過ぎ、鳥居を抜けて石の長階段に足を掛ける。
視線を上げても、先には明かりも届かない闇がある。
「……本当に大丈夫なんでしょうね」
気付けば、俺の背中に張り付くように位置し、服の裾を掴んでいるニニルがいた。
見れば、ネイもいつの間にか俺の腕に掴まっている。
「君らでも怖いのか?」
「……妖精炎が拡散して上手く魔法を形成できないんです。というかこんなところあったんですか。前に来たときは、こんなのなかったのに」
心なしか早口で言って、裾を引く力を強めるニニル。
俺もそんな彼女の台詞にいくらか恐怖を煽られながら、それでも石階段を着実に登る。
「……やっぱり、帰りましょう」
「駄目だ」
後ろはとても振り返る勇気がなかった。
やがて闇の中にあの門が見えてくる。やはり僅かに開いており、隙間から零れる明かりがこちらを誘っているようだった。
意を決して、扉を開き中へと踏み込む。
「……」
境内はそれなりに明るかった。爛々と燃える幾つもの灯が並べられ、独特の色と輝きで辺りを満たしている。
そしてその中に立つ人影がひとつ。
「――お待ちしておりました」
巫女服姿の妙齢の女性。名前は確か、柳瀬さん。
「お久しぶりです」
取り敢えずそう声を掛ける。しかし彼女は俺にも、後ろに浮かぶふたりにも特に反応を見せず、
「付いてきてください」
そう一言だけ言って、殿の中へと音もなく歩き出した。
俺もその後ろを追い、倣って極力音を立てないよう殿に上がる。
幾つか角を曲がり、扉を開け、古臭いような、懐かしいような匂いが鼻腔をくすぐる中。柳瀬さんは一際大きな扉の前で立ち止まり、ゆっくりと静かに叩いた。
「お客様をお連れしました」
返事はない。数秒の間を置いて、柳瀬さんは扉を開ける。しかし彼女は中には入らず、俺達に入るよう手で促した。
「失礼します」
一言断って、そっと扉の内へ入る。
そこにあったのは神社らしいような、しかし奇妙な物体だった。
らしいというのは、それが直径三メートルを越す巨大な銅鏡のようなものだからだ。赤茶色の輝きを薄らと緑青の錆が覆い、無数の年月を感じさせる遺物。
奇妙というのは――その銅鏡は宙に浮いているのだ。何の支えもなく、板間の床から五十センチメートルほどのところに。
そして俺に続いて入ってきたネイとニニルによって、この物体が何なのかが叫ばれた。
「――界の鏡!?」
「界の鏡? これがそうなのか?」
「は、はい。幻影界にあるものとは少し違いますが…… この感じは、確かに――」
「御名答」
ネイの戸惑いの声に応えたのは、あの“彼女”のものだった。
「――!」
咄嗟にネイとニニルが警戒の色を露にして振り向く。
いつの間にか俺達の後ろに立っていた“彼女”は、あの時と全く変わりない姿をしていた。
髪も肌も服も白い少女。両の目は相変わらず閉じられている。
何も見えていないはずなのに、やはりそれを感じさせない動きで俺達を迂回して、界の鏡の前へ。
「ようこそ青年。では、まずは君の願いを聞こう」
どこか芝居がかった調子でそう問うてくる白い少女に、俺はひとつ深呼吸をしてからはっきりと答える。
「五人の妖精を連れ戻したい」
「なるほど。では、現実を選ぶということだね」
少女は頷くと、薄い笑みを浮かべる。
「選択肢は色々ある。私達の力を最大限に利用するもよし。君自身の力で挑むもよし。ただし何にしろ、相応の代価を頂くよ」
「代価? お金……じゃないんだろうな」
「勿論。代価は、君やそこのふたりの魂だ」
その言葉を聞いた瞬間、ネイが俺の前に飛び出した。
「ご主人様の魂を使うことは、許しません……!」
その小さな身体で、白い少女から俺への視線を遮らんとばかりに一杯に身を張ってくれる。
そんな行動もやはり白い少女には見えているのだろう。くすりと笑って、しかし声は冷たい。
「君には聞いていないよ。私は今、君のご主人様に話をしている」
「……!」
その言葉を受けて、ネイが気押されるように下がり、俺の顔をちらと見てくる。
絶対に早まらないで――そう言いたいのがありありと分かる心配と不安の顔。
「魂を代価にしたとして、俺は死ぬのか?」
「量による。支払った分だけ寿命が縮むようなものだと思ったほうがいい。生きたまま支払えるのは半分ぐらいが限界だね」
「そうか……」
「ちなみにひとつの基準として、界の鏡を使って五人を強制召喚するなら、君の魂を丸々貰うよ」
その声に、ネイもニニルも声はないが警戒を強くしているのが分かる。
しかしそれを意に介する風もなく、白い少女は続ける。
「私達は、人々に無償の恩恵を与えることはできない。必ず同等以上の試練を伴わなせなければならない。恩恵を願えば願うほど、負担は大きいものになる。逆に――」
「自ら負担を背負い込むのなら、大きい恩恵を与えることが出来る?」
「そう。私達だって出来る事なら全てを助けてあげたい。でも、私達にも私達の試練がある」
言いながら、白い少女は踵を返す。そして銅鏡――界の鏡の縁にそっと触れ、すっと撫でた。
瞬間、りぃん、と鈴が鳴ったような澄んだ音と共に表面が本物の鏡のようになり、しかしそこにここではない場所の光景が映し出される。
それは、赤と青の月が浮かぶ、薄紫色の闇に包まれた深い大森林。
「あ……!」
ネイとニニルから声が漏れる。恐らくは、今鏡に映っているのが『幻影界』なのだろう。
「――だから、ビジネスライクにならざるを得ない。青年、君にひとつ、具体的な指針――プランをあげよう」
「プラン?」
「うん。サービスのようなものと思って欲しい。初回ご利用の、ね」
くすりと笑って、白い少女は右手の人差し指を立てた。
何か、と思ったその瞬間、そこに黒い人魂のようなものがすう、と現れる。
「君と七人は、強い絆で繋がっているね?」
「ああ」
確認するような声に、即答で返す。
自惚れではない、と思いたい。俺と彼女達の間には、言葉以上のものがあるはずだ。
そんな俺の考えを見透かすかのように、白い少女はまたくすりと笑って、それから真剣な真顔になった。
「では、それを君への試練としたい。君の魂の半分を支払い、代わりにこの黒い魂の半分を受け入れる。それを飲むならば、私達は君達を向こうへと飛ばす。要所でアドバイスもしようじゃないか」
「……分かった」
「ご主人様!」
叫ぶネイを片手で制し、俺は更に尋ねる。
「その黒い魂は何なんだ?」
「これは君への試練であると同時に、君に力を与えてくれるもの。ここから遥か遠い世界で、見渡す限りの荒野と、大河が水を運ぶ限りの森を支配し――そして侵略者との戦いの果てに倒れた獣の王の魂」
白い少女がどこか懐かしむような声で言って、黒い魂は彼女の手元を離れる。ゆっくりと宙を漂い、俺の眼前までやってくる。
よく見ればその黒は闇ではなく、磨かれた黒鉄のような滑らかな輝きに満たされていた。これはその獣の瞳か、あるいは毛並みか。
「君が支払った魂の半分をその魂で補填すれば、寿命が縮むようなことにはならないよ。勿論、それに伴なう弊害は色々あるだろうけどね。まあそれも試練だと思って欲しい。力を手に入れるということがどういうことなのか、分かると思うよ」
言いながら、白い少女は右に向かって歩みを進め、そこにあった扉を開けた。向こうに見えるのは同じような正方形の部屋に、その中心に敷かれた一組の布団。
「覚悟が出来たらここで眠るといい。目覚めた時には魂の入れ替えは終わっているよ」
「……どうも」
「どういたしまして。じゃあ、明日の朝にね」
白い少女はくすりと笑って、左側の扉を開けて出て行く。それを見届けて、俺は右側の部屋に入り、布団の上に腰を下ろした。対面にネイとニニルも腰を下ろす。
刹那の後、はあ、とひとつ息が零れた。
「――試練、か」
幾許かの間を置いて、俺は息を吐き出しながら言う。
「ご主人様、やはり考え直して頂けませんか?」
やはり食い下がるのはネイ。不安で表情を一杯にして訴えかけてくる。
「もしもご主人様を失うようなことになってしまったら、私は……!」
「ありがとうな、ネイ。でも、絶対に引き下がるわけにはいかない。手が届くかもしれないと分かった以上は尚更だ」
俺の答えに更に食い下がることはなく、ネイはその紅玉の瞳に涙を貯めたかと思うと、その小さな身を投げ出すようにして抱き着いてきた。
せめてそれを受け止め、そっと赤の髪を撫でる。
「ニニルはどう思う?」
界の鏡を見て以降、難しい顔でずっと沈黙を貫いていたニニルに問う。
ニニルは数秒の間を置いて一度口を開きかけ、しかし閉じる。それから数秒後、再び口を開いた。
「私の意見を聞いてどうするんですか。これは悠のことですから、私は口を挟むつもりはありませんよ。私に累が及ばない限りは」
彼女らしい答えに、俺は思わず苦笑いを零す。
「それも、そうだな。いや、ありがとう」
「礼を言う必要はないと思いますが」
「そこまで言うなよ。ちょっと不安でさ。声が聞きたかっただけだ」
「全く……」
これ見よがしに溜息を吐いて、ぐるりと周囲を見回すニニル。俺も釣られて視線を巡らせる。
古臭い電灯に照らされた和室。四方は襖で、どこかに繋がっているのだろうがそれを確かめる勇気はあまりない。
「ここの人間達は何者なんでしょうか」
「さあ、な。今の俺としては、力を貸してくれるなら何だっていい」
「本当かどうかも分からないのに、無用心が過ぎませんか?」
「それを言ったら、俺はピア達と一緒になってないよ」
ネイの腕に込められている力が強くなる。撫でることでそれをあやすようにして、俺はまたひとつ息を吐いた。
「まあ、気にならない訳じゃない。明日になったら聞いてみるか。答えてくれるなら、だが」
「そうしてください」
「ところで――魂を入れ替えたりすると何が起きるんだ?」
俺が落ち着いてきたところで、気になっていた問いかけをする。
本来なら白い少女に尋ねるべきなのだろうが、それをしなかったのはやはり先にネイとニニルに聞きたかったからだろうか。
「……それを知らないのによくあそこまでほいほい返事が出来たものです」
「まあな」
「褒めてません」
はあ、とまたこれ見よがしにため息を吐き、しかしニニルは微妙な表情になる。
「私はあまりそういう話題には詳しくはないのですが…… 魂は生き物の根源たるものですから、その一部を差し出すということは、自分の全てを切り裂いて差し出すことに等しいはず、です。記憶障害や人格障害といった精神的な部分を初めとして、肉体的な部分さえも衰える可能性があるそうです」
「そう、なのか。でもそれじゃあ俺に力を与えてくれるということにはならないだろう?」
「はい。あの黒い魂の力がどれほどのものかにも寄りますが…… あの人間の言っていた通り、悠が弱くなるということにはならないのでしょう」
言いながらも、それを口にしているニニル自身がどこか納得のしていない顔だった。
「何か気になるのか?」
「当たり前です。あの人間はあの黒い魂を『獣の王の魂』だと言っていました。対して悠は人間です。元の種族が全く異なる魂を混ぜ合わせるということが本当に可能なのかどうか…… 先程も言いましたが、魂は肉体も司っています。そこで齟齬が起きるのではないかと」
「なるほど。まあ、出来るって言うんだから大丈夫じゃないか。あの子も『弊害はある』って言ってたし、多少は覚悟の上だ」
頷きつつも、具体的なイメージが伴わないせいで半分も理解できなかった俺である。
それにそこを考えてもどうしようもないということもあった。怖くはあるが、何分他に手が見当たらないのだから。
「――よし、じゃあそろそろ寝るか。ネイもすっかり寝てるし」
俺に抱き着いたままいつの間にか静かな寝息を立てていたネイをゆっくりと布団の上に横たえ、俺も上着を脱いで横になる。
「そうですね。 ……布団がひとつしかないのが誠に遺憾ですが」
「我慢してくれ」
「はあ…… 仕方ありません」
三人で密着しながら布団に入る。
柔らかい感触と心地良い匂い、温かな熱が何とも情欲を誘ったが、流石にここで手を出す訳にはいかない。
全ては明日だ。
魂の一部を入れ替えるということがどういうことなのか――俺は恐怖と期待を綯い交ぜにしながらも、ふたつの小さな身体を抱き締めながら瞼を閉じた。